Kamiyo

麦秋のKamiyoのレビュー・感想・評価

麦秋(1951年製作の映画)
5.0
麥秋(1951)(ばくしゅう)監督小津安二郎
脚本 野田高梧 小津安二郎

若い頃に小津映画にあまりく興味がなく
観ていなかったが、しかし年を重ねてから、この映画を
見ると日本人の微妙な心のやりとりや美意識が失われつつある今日に、日本人の内面的な品性を表現したかった
小津の気持ちがよく理解できるようになった。
日本人にある相手への思いやりの気持ちが
会話の節々に感じられる。

麦秋(ばくしゅう)は、麦の刈り入れ時期の
初夏の梅雨前の季節を指す。
まるまると太った麦の穂がさわさわと風に揺れる情景。
早く刈り取ってほしいけど、刈り取られたあとの畑を想像するとさびしくて、ずっとこのまま麦の穂を見ていたい。…そんな意味合いなのでしょうか。
そんな麦畑が必要だったから、舞台は都心でなく
鎌倉なのかもしれません。
冒頭の朝食のシーンから魅力的だった。
本当に何気なくて当たり前の普通の日々。

戦後6年目の鎌倉を舞台にした映画だが、
戦争の影は少ない。わずかに間宮家の出征したまま
生死不明の次男を嘆く場面があるだけ。
大きなテーマとしては娘の嫁入りとそれを契機とした
家族の変容してく様子が描かれていて
特に大きな事件が起きるわけでもない淡々とした日常の
描写にあるいは物足りない向きがあってもおかしくない。
そのひとつひとつが愛情込めて描き分けられていて
つい見とれてしまう。
戦前からの都市生活者の余裕ある人々の人間模様を描く。ユーモアな味つけが秀逸である。
小津の丹念な描写は、セリフにならない気づかいまでも
観客に伝える。それが観客の琴線に触れる。

紀子(原節子) は矢部(二本柳寛 )と
突然結婚を決意します

紀子が矢部を結婚相手として意識するシーン
ニコライ堂近くのお茶の水の喫茶店で矢部とコーヒーを
飲むのですが、戦死したと思われる大好きだった兄の省二が、矢部に宛てた省二からの手紙を紀子がもらう約束をする場面がある。その手紙は徐州からの手紙の中に麦の穂がはさまっていたという。
矢部は紀子が慕っていて戦争で行方不明になった
兄省二の同級生だったのだ。
その時紀子は矢部に兄省二の面影を見たのでしょう

その理由は確かに紀子の言う通りだと思います
親友の”あや”(淡島千景)に矢部を選んだ理由を尋ねられ「昔から一番良く知っていて、この人なら信頼できると思った」と語っている。
ラスト近くに兄嫁の史子(三宅邦子)との砂浜の場面では、断った縁談の相手について「40過ぎてひとりでぶらぶらしている人は信用できない」と本音を述べている。
しかしそれは紀子が自分で自分を納得させている
言葉のように思います

”あや” に矢部のことを
あなた好きなのよと言われた時、
紀子は違う、安心できる人だから結婚するのよと
答えたのです、”あや”から、
ほら やっぱり惚れちゃたのよと
言われても、紀子はそうじゃない!と言い張るのです
そして紀子は、家に帰り独りでつまらなそうに
お茶漬けを、すする時の彼女の顔にはいつもの
笑顔は無く、少しも楽しそうではないのです

紀子がその年になるまで独身でいたのは
妻子も有るであろう上司の専務佐竹(佐野周二)
に憧れていたからではないでしょうか
序盤での専務佐竹との会話はまるで夫人のようです
専務佐竹は節度を持って接しており
縁談まで世話しようとしていますが
終盤の退職の挨拶に来た紀子に
専務佐竹はつい本音を冗談として口にします

”専務”が ”もし俺だったらどうだい”
”節子”は ”もっと若くて独り身だったら・・・”

専務佐竹は、駄目かやっぱりと、
お互いに笑ってごまかすのですが
専務佐竹は痛む腰を無意識に叩き、もう若く無いと
自分に言い聞かせ戒めています
そして紀子に東京を良く見ておけと言いつつ
紀子の喪失の重さを今になって思い知っているのです

専務佐竹は本当は遊び慣れている男であることは
”あや”が、専務佐竹のところに来た時の
寿司の会話で分かります、蛤と巻き寿司は好きかい?
の問いかけは、実は猥談です
料亭育ちの”あや”は、直ぐにそれに気がつき怒ったのです
もっと言えば、”あや”もまた専務佐竹に魅かれていて
紀子にかこつけて何かにつけて専務佐竹のところに
通っています
密やかな三角関係が水面下にあったのだと思います

そしてこの大家族がそろって食事するのももう最後になると言う会話になったとき、
バラバラになる家族の原因を自分が作ってしまったと紀子が泣くシーンになるのです
実は彼女はそれだけが原因で泣いているのではないと
思います
憧れの専務佐竹から逃げ出して、手近にあったきっかけに飛びついていただけなのだと、やっと自分で思い至った、
その涙だったのだと思うのです
その結果に紀子は今さらながら気がついたのでは
ないでしょうか
専務佐竹と”あや”との会話のヘップバーンとはオードリーではなくて、キャサリン・ヘップバーンの方です
紀子はフィラデルフィア物語など気の強い現代的な
女性を演じるのが常でした

原節子さんの素晴らしい、圧倒的な笑顔ですね。
この素晴らしい笑顔に圧倒されました。
原節子さんが如何にも戦後の女を演じて、日本の社会が新しく生まれ変わろうとする息吹を感じましたね。
面白いのは、紀子(原節子)と”あや”(淡島千景)の2人が未婚であり、既婚者の高子(井川邦子)マリ(志賀真津子)の前などで会話するときに、
「○○○○○○なのよね~」→「△△△△△△なのよね~」という会話。
「ねえ~」「ねえ~」の呼応、「ほんとにほんとよ」「え ~」とかいう言葉て、当時の中高年は苦々しく思ったかもしれませんが(笑)
僕は個人的にこの映画の淡島千景さんがとても好きです。言葉のやりとりがなんとも可愛らしく魅力的です。

博物館に出かけた父(菅井一郎) と母(東山千栄子)が二人して広場で腰掛けて紀子の嫁入りの話を交わすシーンは後の「東京物語」での老夫婦の熱海のシーンと好一対。ここで二人は空に舞い上がっていく風船をそれとなく眺めている。
主の手を離れ飛んでいく風船に娘紀子の旅立ちやバラバラになっていく家族の様子までが表象される。
冒頭から描かれる幸せな家庭がいつまでも続いて欲しいと願う父は再三「今が一番幸せだ」といったセリフを口にする。しかしそれが長続きするものでないことは本人もわかっている。
ラストシーンで映される大和(奈良県)の鄙びた風景と
嫁入りの行列は見つめているのが老夫婦であるだけにそこはかとなく無常観を漂わせた結末となる。見直せば見直すほど新たな発見ができる傑作だと思う。
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