ワンダフルデイズモーニング

偽大学生のワンダフルデイズモーニングのレビュー・感想・評価

偽大学生(1960年製作の映画)
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 原作「偽証の時」にそれまでの経緯を肉付けされているオープニングからしてある種非常にばかばかしいというか、「偽大学生て!」という気持ちがずっと消えないままではあるのだが、次第にやばいことになってくる。ことのおこりから結末まで、ノリとしては闇金ウシジマくんみたいな話なのだが、ウシジマくんは出てこない。

 監禁により監禁した側が次第に"監禁"という行為そのものに苦しめられていき、またそのただなかで「監禁したところで何もいいことがない」と気づきながらも辞めるわけにはいかなくなるという新たな苦しみが生まれて、犯罪行為であるという高いリスクにもかかわらず中身が空疎という大江文学初期に通奏する"骨折り損のくたびれもうけ"に発する、実存とは何か?の問題は映画もまたそのように訴えかけがある。だけどそれは言うなれば「偽証の時」の感想になるので、映画「偽大学生」のことを言うとすれば、主人公が偽大学生本人に据えられている点に、かれの「なぜ大学生になりすまし、またそうあり続けようとするか」という問題(それは原作にもある「なぜ監禁時に叫び声をあげて助けを呼ばなかったか?」にも通じる)へのひとつの答えがあり、かれの答弁では「親を安心させたかった」とあるが、これは表層的なことであり、端的にワナビー、"自分がなにものかであるという保証"をえたかったということだろう。たとえ学生リストに載っていなくとも、歴史研究会にてその一員であるという外的な認知をされる=それが監禁という状態であれ、彼らの輪の中にいる、ということをこそかれは望んでいたのではないだろうか。
 この切実な欲望は、大江健三郎の実存という主題にも多いに親和性があり、また、"大学生"という肩書きが歴史研究会つまり左翼的なセクトにおいては空疎であること、もしくは歴史研究会というセクトにおいて彼らがやっているのは飲み会と監禁という(勘違いもありながら)なんら革命行為に繋がらない空疎な行為であるということ、にも比喩的につながりがある。

ラストはおなじく増村保造監督「巨人と玩具」のラストシーンも思い出される明るくも完全なる狂気(アリ・アスター とかいって騒いでる場合じゃないんだ)で締めくくられるが、そのラストぜんたいもしくは最後のセリフには大江というよりも白坂依志夫・増村保造の作品らしいニヒリスティックで端的な示唆がある。原作にはないあのラストシーンによって、この映画が大江健三郎を原作にしながらにして、やはり増村やはり白坂の作品になっている。