をちゃ

わたしを離さないでのをちゃのネタバレレビュー・内容・結末

わたしを離さないで(2010年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

ある閉鎖的な施設で育てられている何十人もの子供達。普通の学校とは何か異質な、少し不気味な学校。実は彼らは臓器提供のためだけに生み出されたクローン人間だった。

施設を出てある集団の中で暮らしていくことになったキャシーたちは、“真実の愛”を証明できれば、猶予として臓器提供までに何年か時間を与えてもらえるという噂を聞く。施設の授業の中で絵や作品を作り出し、それを“ギャラリー”に見せていたのはその個性をギャラリーに見せ、真実の愛を証明するときにその人格を認めてもらうためのものだったのだと考え、交渉しにいく。しかしそこで告げられたのは、その作品たちは、「各自の個性を認め、評価、証明するもの」ではなく「クローン人間も個性を持っている。人としての権利を持っている」という証明のためだった。しかしその証明も、学校が閉鎖されたことでないものとなった。(証明されなかった)
“愛”という微かな希望を持っていたのに結局彼らには愛することさえも許されなかった。所詮は“人間”のための“生”だから。

思っていたよりもとても重い、だけど近未来ではありえなくはない話だった。
クローン人間を作り、そこから臓器を貰えば今ある命を数多く助けることができる。とても近未来的で合理的な発想だと思う。
ではクローン人間は人間ではないのか?
「私たち(クローン人間)と私たちが救った人々には違いがあるのか?皆“終了”する。生を理解しないまま___」
というエンディグで映画は終わる。

クローンはクローン(複製、偽物、替え玉……)だからといってそこに“命”はないのか。生きる権利はないのか。例えばそれが他の動物だとしても、ぞんざいな扱いを受けるべきものなのか。
“人間”を生かすためだけに、何を得るわけでもなく、死んでいく存在でいいのか。

でも今生きている人間からすれば、もし自分が臓器提供を必要としている人間ならば、クローン人間でもなんでもいいから臓器をくれと思うかもしれない。いるかわからない、いつ見つかるかわからない適応者を見つけるよりも、数多くのクローン人間を生み出しその中から適応者を見つければいいと。

でももし、自分がクローン人間として生まれてしまったら。
をちゃ

をちゃ