れおん

泥の河のれおんのレビュー・感想・評価

泥の河(1981年製作の映画)
4.1
 少年の一夏の淡い友情物語。戦後10年、昭和三十一年の大阪、食堂を営む家族が河沿いに暮らしていた。父晋平と母貞子の息子、信雄。ある何気ない日、食堂には常連の馬車のおっちゃんが来ていた。信雄は、そのおっちゃんの耳を見ると、目線を下へ逸らした。彼の帰りを見送る信雄、信雄は彼の事故死を目撃することになる。次の日、現場へ戻ると、土砂降りの中に一人の少年が、馬車の前で立っていた。
 「この鉄高う売れるで。」彼は、そう言い放った。

 昭和三十年代、戦争で身内を失った遺族、朝鮮戦争で金儲けをする富裕層、戦争の記憶が残る帰還兵、戦後の人生を歩む人々は、そう簡単には生きれなかった。戦争で死ぬのか、生きて苦しむか。迷い彷徨いながらも、人々は強く生きていた。とはいうものの、人は生き方関係なく、あっさりと、突然死んでしまうもの。
 他方、子供たちには"未来"がある。子供は親を選べない。生まれてきたくて、生まれてきたわけではない。しかし、子供たちは、元来備わる好奇心と探究心で、自らの環境・社会を知り、「生き方」を学ぶ。色んな人間に育てられ、己の人生を歩んでいく。二人の少年は、その出発点に出くわせ、倫理観の違いと"真"の友情を感じることとなる。

 戦後の時代背景と共に、人の死の苦悩と子供の対照性が魅力的に描かれている。照明や演出において、繊細にその差異が施されている。土砂降りの雨の境界から始まり、全身白に包まれる信雄に対して、帽子を被らず黒い短パン黒のボロ靴の少年、喜一。また、彼らの「遊び」や「幸福感」の感じ方にも対称性が感じられる演出となっている。
 そして、脚本/ストーリーテリングも素晴らしい。映画作品という短い時間内に、異なる対照的な家族の在り方、子供の考え方や倫理観の違いを、観客が感じ・読み取りやすいように物語が構成されている。
 映画としてのエンディング及びメッセージ性に関しても、根幹がしっかりとしており、全体として妥当する内容で、心にも深く刺さった。観客の心に残すような、解釈を委ねるような、メッセージが存在していた。

 銀子と喜一が救われる方法があるのか。大人になるにつれ、社会が潜在的に持つ残酷さを目の当たりにしたとき、彼らの生きる道が閉ざされてしまわないのか。当時と現代社会では、その結論に大きな乖離が生じるが、その手段として、問題解決に至らないような優しい嘘や過度な幸福は、彼らを壊すことにしかならないのは、いつの時代にも共通することなのだろう。
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