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カイロの紫のバラのHKのレビュー・感想・評価

カイロの紫のバラ(1985年製作の映画)
4.0
映画は如何にして現実に作用するのか。
フィクションの限界をテーマとして描きつつ、それでも観客に対して無関心に投影され続ける映画に救いを求めて、じっと目を凝らす主人公・セシリアのラストはウディアレン作品の中でトップクラスに好きなシーンだった。

主人公・セシリアは目の前の環境に対し不条理(横暴な夫)を感じても一旦飲み込んで受け入れる性格。そんな彼女にとっての唯一の逃避は、週替わりで上映される映画であり、スキャンダル・ゴシップ好きでセレブリティに憧れを持つ、当時(1930年代)からしたら一般的(?)な女性像として描かれる。
セシリアの元へと映画から飛び出してきたトムに求愛されセシリアは戸惑いながらも、この環境を受け入れ始める。
映画から登場したトムは劇中キャラクターとしての設定であり、現実と映画の仕様の違いをくすぐり・コメディにしちゃうウディアレン面白い。
演劇と違い映画は再現性のある(フィルムの劣化を除いて)形態であり何十回、何百回と繰り返される固定された運命を打破すべく映画内から飛び出してきたトムと、現実に縛られたセシリアは共通した境遇といえる。

終盤セシリアが横暴な夫に別れを告げるシーンで、セシリアは夫に対し「嫌いじゃないのよ、本当はね」とセリフを残して去っていく。今まで乱暴に扱われながらも、発せられたこのセリフの持つリアリティと重みは、フィクションの中では決して生まれない全くの非論理的でありつつ、少し尊いものにも感じてしまった。
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