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親密さのHKのレビュー・感想・評価

親密さ(2012年製作の映画)
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2024.09.15 @シモキタエキマエシネマ
オールナイト上映 4時間15分


俳優養成学校の講師を受け持った濱口竜介がその一環として制作した「親密さ」
はじめに役者(生徒)に演劇部分の脚本を渡し、3ヶ月間の稽古をドキュメンタリー的に撮影(殆ど使われていない)、ある程度煮詰まった段階で映画全体の脚本を渡し5日間で撮影したという。
監督曰く演劇を映像化した作品はオープニングナイトを除いてことごとく失敗していると語る。演劇とは映画以上に空間的、時間的制約がある。したがって舞台には明らかに空々しいウソが存在している。演出や俳優の手腕だけに留まらず観客との相互的な信じる力によって成り立っている。
演劇を映像化するということは、舞台があり観客がありその後ろにカメラが置かれる。そこでは前述した演劇のウソがカメラという無関心な記録装置によって不意にさらけ出される。カメラの力があまりに強すぎるが故に演劇の映像化は失敗すると語る。
従って今作での演劇の撮り方は舞台側にカメラが設置(観客の顔も見える状態になる)され、演劇の持つ危うさだったり脆さを敢えて映像に収めるという挑戦的な試みがなされている。


濱口作品の恋愛にはゴールがないと、どこかの批評で読んだ。セックスや結婚などをストーリー的なゴールとして設定される他の映画と異なりこの監督の恋愛にはそのゴールが設定されていない。
今作では冷子と良平の2人の関係、決して余裕があるわけではないが続けていくことのできる劇団、この二つは終わりどきを見失い宙ぶらり状態となる。好きなだけではどうしよもできない、だからといって変わろうとするエネルギーも残されていない。一部ではエントロピーが蓄積され疲弊した関係、二部では決別、三部では再会が描かれている。


パラレルワールド
今作は極めて生々しいリアリティを描きつつも、朝鮮戦争(?)の再開という並行世界が描かれている。劇脚本を書き「弱さ」をさらけ出そうと試みる良平は、自身の現実の行動とのギャップを自覚している。
良平にとって目の前にある演劇とは戦争に対抗できるほどのエネルギーがあると昂りつつも、その限界に対するコンプレックスも抱いている。
フィクションという嘘を生み出すものに対し、生死に直結する「戦争」は良平にとって持ち得ない極めて実存的なものとして存在する。だからこそ2年後の第三部で良平は音楽隊として第一戦線で活動している。(令子は誰にも非難されないズルいポジションというが)


親密さとは
自己と他者は絶対的に交わることができないが、手を伸ばしてみるとその境界線は極めて曖昧で不確実な距離。想像は言葉によってのみ運動を得て運ばれる関係と同様に、人と人との間にも直接に触れ合うことはできず(単に「感情」と訳すことのできない)エモーションが満たされている。エモーションは相手の動きに合わせて相互作用し、スクリーンを越えて観客にまで伝播する。エモーションは人と人との距離を伸び縮みさせるものであり、その距離感こそがこの映画の文脈でいう「親密さ」なのだと感じた。


ラストシーン
単なるメロドラマになりかねないシーンを、4時間というスケールで描くことで情緒的に見せることに成功していてズルいけど、凄くいいシーンだった。



【作中2度も朗読された良平の詩】

言葉は想像力を運ぶ電車です
日本中どこまでも想像力を運ぶ
『私たち』という路線図

一個の私は 想像力が乗り降りする
一つ一つの駅みたいなもので

どんな小さな駅にも止まる
各停みたいな言葉もあれば

仕事をしやすくしてくれる
急行みたいな言葉もあるし

わかる人にしかわからない
快速みたいな言葉もあって

一番言葉の集まる駅にしか止まらない
新幹線みたいな言葉もあります

地下の暗闇を走る言葉もあります
地下から地下へ受け渡される
よこしまな想像力たち

でも時折 地下から地上に顔を出して
ビルの谷間をくぐるとき 不意の太陽が
無理矢理たてじまに変えようとするから
想像力は眉をしかめたりします

ときどき 届くのが速いほど
言葉は便利な 大事なものに思えます
だけど ほんとうに大事なのは

想像力が降りるべき駅で降りること
次に乗り込むべき言葉に乗ること
ただそれだけです だから

ダイアグラムの都合から
ぎゅうぎゅう詰めの急行と
すっかすかの各停が
同じ時刻に出発して

ほんの一瞬 同じ速さで走るとき
急行の中の想像力がうらやましげに
各停をながめることもあるのです

2012年には
東京メトロ副都心線と
東急東横線がつながるみたいに

今まではつながれなかった
あれもこれもつながるんだろうか
そんなことを想像しています 
HK

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