Kuuta

E.T.のKuutaのレビュー・感想・評価

E.T.(1982年製作の映画)
3.9
三位一体説とET

▽父と子の同時体験
父のいないエリオットは、ETを「息子」のように愛し、教育し、守り抜くことで「父」となる。この構造は分かりやすい。

一方のETもまた、エリオットを庇護する「父」の役割を果たす。出会いの場面でETはエリオットのキャッチボールの相手になる。父の不在が明らかになった直後にETは現れるし、ETがアンテナを作りたいと言ってガレージに入った結果、エリオットは父のシャツを見つけている。

両者は心身を共有し(それが異なるシーンのクロスカッティングで描かれるのが素晴らしい)、やがて離れていく。エリオットは一人称にWeを使い、ETの意識が失われる時、医師は両者が「Separating」していると言う。

エリオットは父と子、昼と夜、二つの世界を行き来しながら、子どもらしい冒険を重ね、同時に父性を理解していく。その結果、父への執着を断ち切ると同時に、「息子」の殻を破って成長する。まさに「大人になれない子ども」スピルバーグの映画だ。

▽2度の別れ
エリオットの成長の第1のピークに、ETと棺桶越しに会話するシーンが置かれる。直接対面できるシチュエーションにもかかわらず、スピルバーグは両者の間にガラスを挟み、生と死の断絶を強調する。エリオットの震える吐息がガラスに当たり、白く曇っていく様子を丹念に捉えている。「宇宙戦争」でも似たシーンがあった気がする。

ここでETは復活する。納屋から現れ、人の傷を癒やすETは、決定的にイエスに接近していく。彼が隠れるクローゼットに、教会のステンドグラスのような色鮮やかな窓がはめ込まれている点も見逃せない。

無駄のないチェイスシーンの後、2度目の成長の場面、最後の別れが待つ。ここで強烈なのは、ETとハグした直後のエリオットの目線だ。大人の顔がろくに写らないこの映画は、この最大の見せ場で、母親の涙ぐむ表情をアップで捉える。エリオットの意識は「今ここ」の母親へ向けられる。

正直ちょっとキモイと思ってしまった自分もいるが、「父」であり「子」であることを受け入れたエリオットだからこそ、目の前の母親を受けとめることができる。かくしてNASAの襲来以降「家が家でなくなっていた」家族は、その絆を取り戻す。

▽精霊としてのET
ETは宇宙人というよりは妖精に近い存在だ。夜の森に現れ、大人は知覚することができない。「ティンカーベルによって空を飛ぶ」という直接的な引用もされている。ETが人形に成り代わること、ハロウィーンの夜に外に出ることもまた、その不可視な異形っぷりを示している。

ETもエリオットも、しばしば影に包まれ、抽象的な存在に変わる。社会通念から外れた、子どもの領域が奇跡を起こしていく。そんな彼らの周りには動物が寄り添っている。

ここまで考えると、ET(Elliott)は、キリスト教における精霊でもあるという解釈に行き着く。彼らが「父であり子」という設定を組み合わせると、神とイエスと精霊が一体として成立する、三位一体説によって今作が読み解けてくる。

母メアリー=マリアは、夫=父を失った結果、信仰を失いかけている。精霊の化身たる火を、彼女はハロウィーンの夜に苛立ちながら消そうとする。このシーンにそこそこな尺を掛けているのは、そういう狙いがあるように思える。

冒頭の食卓で、母はエリオットに「父に電話したら」と提案するが、彼は「メキシコにいるから無理だ」と諦める。Calling(神のお告げ)、神とのコミュニケーションの手段を彼らは失っている。

(彼岸としての宇宙との対話を試みる信仰の映画。ロバート・ゼメキスの「コンタクト」を思い出す)

そこにETがやってきて、電話を掛けることに成功する。ETという精霊が、父と子を介在し、神を神たらしめる。神(ET)は自分の内側にいると気付いた母親は、信仰を取り戻し、晴れやかな表情で空を見つめる。ラストのETとエリオットの別れの間にやや唐突に犬が入ってくるのも、精霊による介在が意識されているのではないか。

▽エリオット=ジョン・フォード
「取り残される人」「家への執着」という、スピルバーグ映画お馴染みのユダヤ人的モチーフ。今作では、荒野をさまよい、家や街に定住できないという西部劇のイメージも重ねられている。

鍵の男が足の影だけで現れたり、夕日をバックに歩いてきたり。終盤のチェイスシーンで、科学者を車で引きずり回す構図は完全にカウボーイだ。

エリオットが蛙を逃がして大騒ぎになるシーン、そのきっかけは、ETがジョン・フォードの「静かなる男」を見たことにある。あの映画は、荒野をさまよい続けたジョン・ウェイン=フォードがアイルランドに帰郷し、結婚するお話だった。ここにも「家に帰る」テーマが乗っている。
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