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麦の穂をゆらす風の遊のレビュー・感想・評価

麦の穂をゆらす風(2006年製作の映画)
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この世に生じているあらゆる対立に対して「どちらにもそれぞれの正義があるから、一概にどちらが悪いって言えないよね」って外側から冷静に、客観的に、俯瞰で見ているうちは一生「世界の一員」にはなれなくて、でもじゃあ我々は「世界の一員」になる義務があるのかと言われればそうだとは言えなくて、だって誰もこの世界に存在させてくれって頼んで存在してるわけじゃないから

そういう「何もかもにシラけた」感覚、
自分にとって大切なものが侵される危険に晒されたとき我々は初めて「対立の当事者」になるわけだから、ハナから「大切なもの」をこの世につくってしまわなければどんな対立にも巻き込まれないだろう、そうすりゃ気楽に生きられるはずだ、という「ライフハックとしての無関心」が確実に自分の中にある

「あらゆる暴力は否定される」という大原則は「正しい」前提として、そこから導かれる文言に「自己の感情はコントロールすべきだ」というのがあると思う、
「感情をコントロールできない奴はダメ」「常に理性的であれ、冷静に議論をしろ」というポリシーが(日本の、若者には?)浸透していて、それゆえに「国会中継とかで相手の話も聞かずに怒鳴り合ってる政治家たち」は「まともな議論ができないオジサン集団」として映る、だからそんな人たちがやってる日本の政治には興味が見いだせない、という言説を見たことがある、確かにおれも政治家に「呆れている」感覚はある

でもそれはこっちが「何事にも呆れて冷笑するスタンス」ってだけなのかもな、
おれは友達とも恋人ともほとんど喧嘩らしい喧嘩をしたことがないし、たまに誰かと口論になったときは「いかにこの対立に対して無関心さを取り戻せるか」みたいな方向性で終息を狙っているような気もする
このまま生きていくと、もし日本が巻き込まれるような戦争が起きて自分も徴兵対象になったら「ダル...」と思って、出来るだけ痛くない方法でフツーに自死するのではないか、無関心人間は追い詰められたら最終的にこの世から脱出する選択肢をとらざるを得なくなる、そしてそういう人間って今の日本にはかなりたくさん居るんじゃないだろうか???

「暴力」「ハラスメント」「個人の侵害」に対して敏感になろうと努力して、誰も傷つけまいとして、誰とも深くコミュニケーションをとらなくなる、というのはおれの極私的な指向なのか、現代社会の趨勢なのか 聞いて回りたいところである
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