映画は、ここまで行けるのか。
映画には、プロットに書き起こしにくい、
映像イメージを重視し説明を拒むタイプの作品がいくつかありますね。
中でも本作の圧倒的な質の高さは唯一無二であると断言できます。
映画フリークにしか観られない単なる実験映画を越えた、
異常な高みに到達している。
序盤に提示された宇宙の存在、地球の発生、生命の誕生と、
たとえばこれらを台本のような散文で表現しようとすればたちまち、
読解の余地をつくりすぎてしまいます。
終盤を占める長男の心的世界においても同様です。
モノローグを語るときの、イメージとしてしか表現することのできない
〈神に祈るときの神的な物象の暗喩〉を映すことも、
映像にしかできないことなのです。
詩のような観られ方を前提とする映画、とするとわかりやすいはず。
詩は美しいものや言語化が困難なものを、間接的に表現しようとする試みです。
宇宙、生命の誕生と、
比較して存在していたどうかさえ危ういたかが一家族の一部の人生、
そして死。
こうした要素が言わずもがな写実不能な「神」のテーマのもと、
あるときは間接的に、そして我々の共感を狙うときには直接的に、
説明はしないので解釈は委ねますよ、と
描かれたたくさんの絵だけを渡すかたちで示されている訳です。
題「宇宙」「生命」「神性」「人」ですけどどうですか?
に対する反応は「私はこう感じる」だけなんです。
映画は娯楽である以前に創作物でもあるんだったという根源に
観者は立ち返らなければなりません。
そしてそれら一つ一つをどう捉えどう結び合わせるかは
ある意味その人の思想次第ということで、
唯物的な思考の方は赫怒激昂せざるを得ないでしょうし、
相容れさえすれば、もはや宗教体験に近しい広大無辺の、
何かの広がりとしか言いようのない感覚に襲われてしまう、
ひたすらに美しい作品です。