このレビューはネタバレを含みます
いくつかハッとするシーンがあった。押入れでのキスシーンと、階段での消化器噴射のシーン、そして殺害後の恋人との再会シーンだ。
1つ目のシーンは流れ込んでくるものの対比だ。悪意を持って口に詰められる新聞紙と、愛を持った恋人の舌だ。
2つ目のシーンは害虫に向けて噴射される殺虫スプレーと構図が全く重なる。保険金詐欺、殺人、恫喝、誘拐など社会に害をなす彼女が害虫に重ねられる。
3つ目はそんな害虫を退治したことで初めて「いつもどおり」会えるようになったカップルのシーンだ。
非常に印象的なシーンの数々を観て考えたことは作中の犯罪心理学者の言葉だ。「サイコパスが現代の環境によって増えている」といった趣旨のもの。
「環境」と言っても彼の言うそれは唯物論的な「自然環境」や「環境問題」といった文脈で使われるものだ。しかし、彼の指摘は彼自身の死によって不正解だと言われるように否定される。彼女のサイコパスは「家庭環境」によるものだったのである。
この作品には容姿や行動が歪に写る人物がよく現れる。保険金を催促しにくる指のない夫、体のバランスが取れていない刑事、挙動不審な学者。これらは一見「環境」によるもののように見える。つまり、犯罪心理学者の言う「環境要因」と言うやつだ。
しかし、最後に容姿や行動が歪な人間がもう一人現れる。主人公の保険屋である若槻だ。彼は殺人鬼である幸子によって足や手を切られ負傷する。フラフラと恵に歩み寄る。ここで若槻は「歪な人間たち」の仲間に入り込む。
だがそれは犯罪心理学者の言うような「環境」が原因なのではなく「菰田幸子」という人間によるものであり、換言すれば幸子をサイコパスたらしめた家庭環境と原因を一にする。人間が人間を汚染し、歪な人間を作り出す。
作中でバケモノや害虫のように扱われたサイコパスは、このように現れるのではないか。そしてそんなサイコパスと自分を峻別し、排除することで安堵することの危うさをもこの作品は示している。サイコパスに殺されかけ、最後には殺した若槻がどうしてサイコパスにならないと言い切れるだろうか。
人間が人間に接触するときの汚染を強く意識させられる