レインウォッチャー

陽炎座のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

陽炎座(1981年製作の映画)
5.0
夜眠る、夢を見るという営みは、水の底に沈んでゆくことと似ている。果たして底につくのか、浮かび上がる保証はあるのか、やがては天地の感覚さえも不確かで、しかし逃れ難い。

この映画でも、夢と水が結びつく。そして、底の知れない水壺であればあるほど…表面に映るのは自らの顔だったりするものだ。

鈴木清順の「浪漫三部作」二作目、前作にあたる『ツィゴイネルワイゼン』では夢と現・生と死を橋やトンネルといった媒体を介して何度も越境させていて、今作にも同様のアプローチを見つけることができる。やはり橋は頻出するのに加え、階段なども目立つ。

しかし、今作は更に境界が融解しており、アブストラクト。
夢の中では場面が論理を越えて移ったり入れ替わったりしつつ、登場人物は過去の思い出の中から共通の人物ばかりが出てきたりもする、そんな体験は誰しも覚えがあるだろう。この映画の中ではちょうどその再現のように、時系列や人が混線し、聞こえないはずの声が聞こえる。そして、その媒体となるのは多くの場面で水である。

主人公の松崎(松田優作)は、冒頭で行き会う人妻の品子(大楠道代)との恋の影に翻弄されるように彷徨う。2人の間にはたびたび川が横たわるのだけれど、松崎はなかなかそれを越える踏ん切りがつかない(このへんの、望んだ行動が良いところで成就しきらない感覚もまた夢っぽいと思う)。むろん、川は生死を分かつものであり、同時に繋ぎとめてもいる。
やがて辿り着いた場所で、しかし時すでに遅し…となるも、その先はさらなる別の夢に引き継がれるか?といった運びで、これもまた前作同様に「終わらない」映画といえるだろうか。

今作の原作は泉鏡花、氏の生家がある金沢がロケ地となっている。映画の内容は、タイトルになった『陽炎座』の他にも『春昼』等複数の中短編作品のコラージュのようになっており、「夜叉ヶ池」なんて単語もきこえてきたりする。

鏡花の文章は、多くの単語や表現が現代離れしていることもあって時に難解だけれど、女性の髪や肌、着物の描写の細かさに代表される艶やかな色彩が、瞼を閉じた後にちらつく残像のごとく確かに残る。この読後感自体を、映画は再現することに成功していると思う。映画全体が、鏡花レトロスペクティブだ。

また興味深いのは、前作『ツィゴイネルワイゼン』は別の原作者(内田百閒)であるにも関わらず、物語が姉妹か双子であるかのように感じられることだ。実際、夢幻・怪異的な雰囲気を纏った女性や、音に誘われる主人公(今作ではホオズキや狸囃子)など、共通点をうまく抽出&拡張している。
まるで、鈴木清順というフィルターを介して、2人の作家が出会って融合したようだ。まさに今作で夢と現、いや複数の夢が折り重なっているように。

〈うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふ物はたのみそめてき〉。

これは劇中でキーアイテムの一つとなる小野小町の短歌だけれど、彼女は〈思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを〉なんて歌も詠んでいて、浮世に見切りをつけた夢への憧れのアイコン的歌人だ。この精神は、ラストシーン近くの松崎が自嘲したようにつぶやく「夢が現世を変えたんだ」という言葉へと集約され、彼はついに自己を切り離す。

映画もまたひとつの夢、その抗い難い重力と快楽を描き切るこの作品は、奇っ怪に見えてどこまでも純・映画なのかもしれない。

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これまた前作に引き続き、困惑一歩手前(あるいは一歩先)のユーモア&エロスも健在。やおら鳴りだす無闇に陽気なスウィングジャズや、あの暗黒ヨガみたいな濡れ場。おそらく、あの場面で最適なツッコミは「それカーマスートラにもないやつゥゥ!」だ。