ニューランド

ホープさん サラリーマン虎の巻のニューランドのレビュー・感想・評価

3.8
 恐るべし、といかにも無色透明無害無個性に見えかねない、この作家の天才と実力を思い知る。セットもかなりショボいし、主演は東宝で固めてるわけでもないし、会社が総力を挙げての·真逆近くにある作品だが(そもそも東宝争議から社の体制も完全には戻ってなかった頃か)、シナリオもキャラ作りも構図もカメラワークも、最善·誠実·奢りない·多面性カバーの作となってる。本当の都会人の矜持というのか、偏りなさ·熱弁排しが、田舎者そのものの私には、手の届かぬ自然なまぶしさに映る。彼からしたら黒澤も(秋田色の)田舎者の愚の塊りに見えておかしくないが、決してそういう事への軽蔑には向かわない、真のハイクラス。
 何かあると直ぐ心臓がバクバク痛む、小心も真っ正直な、六大学?野球部の控え選手だった、元解体財閥の中心大企業への新入社員の、迂闊さと誠実さを、悪意なく無我夢中で行き来しながら、の会社員生活。ライバル社対抗野球戦での勝利導き、それによる社長と令嬢の肝いりに、社長の東北視察の随行員抜擢、新潟の芸者の扱い~社長と夫人の思惑預かり、公職追放だった創始者同族·前ワンマン社長復帰での大量首切り人事、を経ていつしか異例出世もむしろ、その顔に残るは苦々しさだけ。
 偶然や不用意さが、寮の同室の先輩や、恋人の父の仕事を奪い、離職に追い込むこともあり、恋も失う。ドロップアウト、「理想に甘え現実の厳しさに負けた」恋人の兄に偶然出会っての(家族は死んだ事にしてた)、「嘘を生きるより今が満足」とニヒルに言い放たれる凄み(主人公の痼りとして残る)や、現社長一家の騒動の種の強かな芸者は去るとき「女1人で世を生き抜くは並大抵では。病身の母を抱えてなければ自殺してた。貴方は本当にいい人。それでは済まない。勉強して、出世を」と言い置く(主人公も最終的に味方=重しは母だけとなる)、メインストーリーをはみ出たクールさも並行してゆく。
 列車と駅絡みロケも見事だが、メインシンプルな大小フロア·長大廊下·階段らの本社ビルセット·構図だが、階層·縦社会と競争論理の不可逆的·根っこは不動の保守性と確実にリンクし、廊下にへばり付いて磨く清掃人から、重役オンリーの洗面所や廊下の組込まれ、上階から真俯瞰見下し屋外、らが、挨拶回り·駆けつけ·転がり慌てなどでの、人の(垂直)出入り·動きに沿う直截なカッティング(序盤では足早のDISやWIPEにも)で示され、フォローや寄る·退くにも状況の周り人配置の締付け絡めた、膨らみとパースペクティブを持ち続けてる。それが極限に達すると揺れブレながらの速く長いフィット移動ともなり、護りより破りにも働きかねない。そして、立場フリーの屋外ダンス大会への2人の参加では、人の強引さ抱えてもの動き·配置の独自とバランスの両立柔軟受皿·ある種ジャンプカット的カット積みらのリズム·ダイナミズム醸しらが、逆に人間らの主体内部からの纏まりながらも動く何かが予測不能で描きだされる。黒澤がどう撮っても違ってこない本物の世界を先ず作り上げるを一義にしたが、山本はカメラと編集主体に映画を感じさせない、敢えて薄っぺら加えての進行に、疑問·不安呼込みをよしとする。黒澤以上の天才だったかもしれない(そもそも黒澤自体が天才タイプではないが)。
 増村の『巨人と~』は強引なまでの腕力が感じられたが、そのある種先駆的な本作は、センスと慎ましさしか、踏んでない積立ての結果が、ちと凄い。
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