囚人13号

その女を殺せの囚人13号のネタバレレビュー・内容・結末

その女を殺せ(1952年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

いつもの事だが、今回は特にどう書こうか混乱している。いっそなぜ平均が5点じゃないんだと文句垂れて終わろうと思ったが、それではこの映画に失礼な気がしたためやはり例の如く長々と書くことにした。

始まりと終わりでテーマ音楽が流れ、ゆっくりとキャスト/スタッフ陣を紹介していく…などということは決してしない、鋭い汽笛音と共に疾走する列車が映し出され、そこへ大きなタイトルクレジットが被さるのみ。列車が到着すると駅員のナレーションが響き渡り、生活音も混じってくる。エンディングもそうだがBGMを排したために漂う異様な緊張感と、その中で展開される無言シークエンスを更に照らし出す(財政難に基づく)静けさが画面を支配する瞬間、我々の眼前に広がっているこの光景こそB級ノワールの特権的空間に他ならない。

そもそもプロットが限りなく完璧に近い。ある闇組織についての資料を持つマフィアの未亡人を裁判で証言させるため、刑事が護衛についてシカゴ~サンフランシスコ間を走る列車に乗るが、それを阻止しようと組織は殺し屋を送り込む。特徴的でバラエティに富んだ人物造形とそれらが死んでから新たな事実が明かされるという模範的な構造は比較すべき作品が見当たらないほどであり、チャールズ・マックグローの渋い嗄れ声からは彼も所詮、警察組織の駒でしかないのだという哀愁を感じる。目的達成のためならば何人の命が犠牲になろうと厭わない、警察側の残酷なまでの覚悟が敵側を上回っていたために計画が成功したのだろう。
冒頭から再び駅に到着するまでの展開は脚本よりも圧倒的な演出力の勝利だが、 列車に乗り込むまでの刑事と殺し屋の心理戦(スモークが最高に素晴らしい)、そして動き出してからの出鱈目口実による部屋訪問後、一時も相手から目を離せないが…まともに目を合わせることはできないという矛盾によって、窓への反射を利用して行動を観察するに落ち着くまでは極上のサスペンス的映像の連鎖。特に反射はクライマックスで更に一段階上の完成形として反復、再提示される。必要最小限に抑えられた台詞数からも分かるように本作では新聞や手紙、行動描写のみが全てを語っているのであり、これこそが娯楽映画の完成形ではないかとさえ思う。事実、刑事と殺し屋は相手の出方を伺いつつも交わす会話といえば部屋訪問の口実である鞄の行方についてのみであり、こんなにもヒリヒリするサスペンスを緊張感の持続なんて書いたところでとても褒め足りないため、もはや快楽ではないかと慣れない言い回しで最大限の賛辞を贈りたい。

けれども天才的な演出は脚本よりも待遇されるべきで、犯罪映画史上最も重要かつ鋭い。階段から落ちた真珠が早速怪しい男の足元に転がっていくショットは言わずもがな、短期間で幾度となく披露される煙草(葉巻)に火をつける動作と扉が開くことにも重要な意味を持たせる、すなわちそれらを本格的なアクションの誘導として機能させているという何とも繊細な気配りに唸る。もちろん刑事が怪しげな人物の存在に気付いてからの発砲、反撃、殺害、洗濯物をかき分けて逃げていくまでの殆ど快楽的な流動はカメラワークとカットが思い出せないほどであった。この恐ろしく神がかったショットの林立する本作から最高のものを選出するとすれば、それは駅で標的について相談している殺し屋たちの背後を何食わぬ顔で例の女が通り過ぎていく場面だろう。この瞬間やや不自然にアングルが切り替わり、これまで数え切れないほどいた通行人のほとんどが一瞬にして消え失せたかと思うと、この数秒間だけは…恐らく数にして百枚足らずのフレーム…他でもない自分の為に存在しているのだと言わんばかりの存在感を放った女が悠々と悪党どもの背後を横切っていくのだ。彼女の姿が画面から消えた直後、何事も無かったかのように不特定多数の通行者たちがまたどこからともなく沸いてくる後処理的、我々をスローモーションから現実へと緩やかに引き戻すような流れも素晴らしい。
彼女がタクシーを下りてからの四カットで形成されているこのシークエンスこそ、重要人物たちを同一フレームに収め、いよいよサスペンスと舞台が核心部分へ変容しつつあるのだと我々に強く働きかける役目も果たしている。

しかし事実を申せば、本作に見られる演出で反射ほど映画的なものはない。現実が鏡に映し出される様子を更にカメラレンズで捉えるということは、我々と対象との間に少なくとも二枚の壁を隔てることを意味し、事実がひどく遠回しに提示される…がとてもそうとは思えない鮮明な映像に抑え難い、ある意味覗き行為に近しいスリリングな興奮を覚えるのだ。列車の中からブラインドが掛けられ暗くなった窓に反射して浮かび上がる男の姿も印象的だが、対向車線に止まった列車窓に反射する隣室の様子を実に三枚(自分の乗っている列車の車窓/対向車線側の車窓/カメラレンズ)の壁を隔てて展開される劇的クライマックスには言葉を失う。
その殺人が起こる直前の極限まで張り詰めた緊張感は監督の手腕が問われるところだが、フライシャーはシーゲルと同じく死の瞬間の見せ方も知っていた(もっとも、シーゲルやマン、ベティカーの醍醐味はその殺害方法にあるのだが)。本作の死人は皆銃弾を受けて倒れるが、またそれぞれ忘れ難い死に様を見せる。葉巻の灰を床に撒き散らし、蓄音機に手をかけ、一瞬ベッドに腰掛けてから崩れ落ちるのだ。これによって女がレコードで聴いていた本編唯一の音楽にも死のイメージが強くこびり付く。一度目は殺された夫ついての会話と刑事の死、そして二度目は列車内における自らの死である。

時折挿入される疾走する列車のショットから車内へのディゾルブもまた独自のリズムを創り出し時間経過も的確に描出しているが、ここで特筆すべきはマッチカットで列車音と爪磨きの音を繋ぎ合わせた後、更に激しく回転する車輪に電報の文面が合成される演出で(このシークエンス以前にも同じくタイプを打つ音から列車音へのモンタージュはあったが)、マッチカット直後に電報内容が登場するこの二重演出によって、本来なら男が部屋でそれを読む姿と手元のアップで提示されるはずのシークエンスが全く必要無くなっている。
これだけの経済効果を齎すべく一石三鳥の要領で情報を集約し、しかもその事にさえ気付かせず自然にやってしまう腕前にはもうただひれ伏すのみだが、そうまでしてフィルムと資金を節約せんとするケチ・プロフェッショナリズムにもはや感激(故にフライシャーに大作など撮らせるべきでなく、彼が本当に撮るべきだったのは『ヴァイキング』/『ソイレント・グリーン』ではなく、『絞殺魔』/『ラスト・ラン』である)!

ハンプティ・ダンプティ男も従来の映画ならばただの笑い要員であったろうが、彼の扱い一つとってもフライシャーの手にかかれば文句の多い食料品野郎にも、重要人物にも、お望みとあらば壁にもなれるのだ。
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