一度観ただけではその微細な演出やセリフを逃してしまう。映画というよりも文学であるのは、アンドレバザンの言うように彼の原作の翻訳の上手さにあるのかもしれない。
映画真っ先に始まった劇的な音楽がオープニングを飾ったあと、場面はどれも暗く重々しい。彼らの表情が一向に晴れることはない。また、ドラマが起きない。正確には起きてはいるのだが、それが悲劇的な涙を誘う演技や音楽で盛り上げたりという映画的な演出がない。これもまた淡々と描かれていくばかりなのだ。
最近観た映画で似ているものといえば「サタン・タンゴ」なんかがそうだろう。あの、人の行動を長回しで追う姿勢と、ドラマ的演出を避けた今作品のテーマは似ているように思える。また出てくる人間の無表情さこそ、リアルでまた現実における壁である。主人公の心情は日記に記す形で表れているが、他の人々は自然な人間的反応をする。声を荒げたりもするが、何が根底にあるのかわからない。司祭である主人公は彼らに寄り添おうとするも嫌悪され、嫌な噂が広がる。そして、道で転んだり、ワインの瓶をひっくり返すという小さな出来事がさらに精神を追い詰めていく。「なぜ?」と主人公が日記に記すことが多い。それは、しかし不条理というよりもリアリズムからくる不可思議さなのだ。もっとも、不条理もリアリズムも実は根底は同じものなのかもしれない。またカフカ原作のアニメーション「田舎医者」と何か似ている気がした。あの田舎の疎遠な人々の関わり方とか。
宗教色が強く、アンドレバザンの本を読んでわかった色々なことがあった。例えばパンやワインの意味合いだったり、司祭である彼自身をキリストとしてみる見方だったり。この作品を掘り下げるなら是非アンドレバザンの「映画とは何か」を読んでみるとよいかもしれない。また、この映画の原作の本を実写にするためにロベール・ブレッソン監督が如何にして映画におとしこんだかを論じている部分も面白い。難しかったが。
全てフェードでつながるシークエンス達は、ふいに日常が終わりそのまま暗幕になる。これは「次の朝果たして目覚めるのか」という根本的な死への不安の表現なのかもしれない。