ナガエ

もののけ姫のナガエのレビュー・感想・評価

もののけ姫(1997年製作の映画)
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開始10分で泣いてたなぁ。年を取った。泣けてきた理由は正直良くわからないけど、「高潔さ」なのかな、とちょっと思う。


非合理的な話は好きじゃないのだけど、自然災害は、自然の「怒り」と受け取るべきだろうなぁ、と思う。

台風や地震や、あるいは感染症を自然災害に含めるべきか分からないけど、そういうものがどんどん増えているように思う。本当に増えているのかどうかは分からないけど、実感としては。

そして、その要因は間違いなく、人間だろう。

別に僕は本気で、自然が「怒り」を「人間」に向けているなどと思っているのではない。それは、システムの調整機能だろうと思っている。これまで人間は自然とうまく共生してきただろうが、そのバランスが崩れるようになってきた。だから自然は、そのバランスを整えようとして、その揺り戻しが自然災害という形に繋がっているのだろうと思う。

しかしそれでも、人間はそれを、「自然の怒り」と捉えた方がいいと思う。

「妖怪」というのは、よく出来ていると思う。「妖怪」というのは、その当時の科学などでは理解できなかった(あるいは、今の科学でも理解できない)事柄を、「妖怪のせいだ」という風に納得させるものだと思う。理由が分からないと、人間は不安だ。でも、「妖怪の仕業なんだ」と思えれば、原因が分かるから安心できる。そういう側面が、人間にはあるなと思う。

自然災害は、たぶんシステムの揺り戻しなのだけど、でもそれはなかなかパッとは理解できない。だから、「自然の怒り」という理解の方が分かりやすいと思う。そういう意味で人間は、自然災害を「自然の怒り」と受け取るべきだ、と思っている。

かつて人間の世界には、「絶対的な判断基準」が存在していたと思う。それは、時代や国によって様々な形を取る。宗教の教祖だったり、コーランのような書物だったり、科学の真理だったり。日本で言えばまさに、「自然」がそれに値するものだっただろう。

今でも、その残滓みたいなものはある。今でも古来からの宗教は(形を変えているとはいえ)存続しているし、「山の神」や「大漁祈願」などの形で自然に敬意を表する場合もある。しかしそれでも、判断基準が「絶対的」であるためには、ほとんどすべての人がその判断基準を信じる必要がある。「判断基準」そのものに「絶対性」があるわけではなく、「ほとんどの人がその判断基準を信用している」という点にこそ「絶対性」が宿る。そして、そういう意味での「絶対的な判断基準」というのは、もう今の時代には成り立たないように思う。

この映画の中で、「シシガミ」は、そういう絶対的な存在として描かれているだろうと思う。シシガミがどういう判断をしているのか、それは恐らく誰も分かっていない。分かっていないが、ただ、シシガミの判断には従おう、という存在。そういう存在がいるからこそ成り立つものがある。

恐らく人類の歴史というのは、そういう「絶対的な判断基準」を打ち砕こうとしてきた歴史なのだと思う。迷信や伝統と言ったものを解体し、それらに「科学的な説明」を付与するか、それが出来なければ「無意味」と切り捨てていく。正直僕は、科学や合理的な説明が好きな人間なので、迷信や伝統を解体していく流れは仕方ないと思う部分がある。

でも、「もののけ姫」のような物語を見ると、人間というのはやはり、人間を超越した「絶対的な判断基準」無しには上手く存在できないのではないか、と思わされる。それが迷信と呼ばれようが、その迷信を全員が信じることによる効果というのは無視できない。そのことを、あらためて考える岐路に、人間は立っているのかもしれないと思う。

とはいえ、今から「絶対的な判断基準」を信じる社会に戻るのは、たぶん無理だろう。人間はいつからか、自然を畏怖するのではなく、抑え込もうとするようになった。自然に打ち克つことが出来るとも思っているはずだ。そう思っている以上、「自然」は「絶対的な判断基準」には戻り得ない。日本人は宗教的な感覚にも乏しい。欧米ならともかく、日本でこれから成り立ちうる「絶対的な判断基準」を見つけ出すことは、難しいだろうなと思う。

たぶん、人類の歴史の中で、「絶対的な判断基準」を持たずに過ごしている稀有な時代なのだと思う。前例のない時代だ。どれぐらい先か分からないが、人間はいずれ、人間が作ったもの(今は「核兵器」を想定しているけど、未来には別の何かが出てくるかもしれない)によって滅びるだろう。そうなった後にまた、「絶対的な判断基準」と共に生きる知的生命体が現れるかもしれない。

内容紹介はするまでもないだろうからしない。

冒頭に書いた「高潔さ」の話をしようと思う。登場人物の多くは、欲まみれだ。もちろん、崇高な意思を持っている者(エボシ様など)もいるが、しかしやはり根底には欲深さがある。

しかし、アシタカとサンは、「高潔」という言葉が合う。その「高潔さ」みたいなものに、打たれたような気がする。

気持ちとしては常に、「高潔」でありたいなぁ、と思う。ただ、怠けたかったり、疲れてたり、本当に正しいこと以外を優先せざるを得なかったりと、なかなか簡単じゃない。というか、「高潔」でいることはほとんど無理だ。多くの人も、別に「高潔」を望んでいるわけではない。ほどほどでいい、とみんな思っている。

アシタカやサンの世界では、「高潔さ」は、僕らが生きている世界よりはずっと尊ばれるだろう。それでも、なかなかああはいられないはずだ。

アシタカは特に、「誰の」とか「どちらの」という判断をするのではなく、常により高い位置から物事を判断しているように思う。それこそアシタカは、ある種の「絶対的な判断基準」みたいなものかもしれない。普通の人間だから、アシタカの判断を、誰もが「絶対的」と感じるわけではない。しかし、彼の存在に、「絶対性」を感じる人はどんどんと出てくる。

大変だろうから、アシタカのようになりたいわけじゃない。でも、なんとなく、アシタカのような有り様に惹かれる自分もいるんだよなぁ、とも思っている。

ジブリ作品を映画館で観たのは、初めてかもしれない。もちろん、「もののけ姫」に限らず、ジブリ作品はテレビで何度も観たことがあるけど、映画館で観るとやっぱ全然違うような気がする。しかし、何度観ても飽きないって、やっぱり凄い映画だよなぁ。
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