レインウォッチャー

プロスペローの本のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

プロスペローの本(1991年製作の映画)
4.0
映画のある画面における統制された構成美を誉める表現として「絵画のような」なんてクリシェを見かけるけれど、それで言うなら今作は「映画全体が一本の絵巻物のような」。

P・グリーナウェイ御用達の横スクロールカメラの多用も手伝って、ルネサンス期の美術と現代バレヱの舞台が合わせ鏡となって連綿と続く百鬼夜行を形成するような、奇想幻想の回廊に迷わされる。あと、女の実と男の茎は一生分見ることになる。絢爛な衣装はワダエミ。

原作は、シェイクスピア最後の戯曲といわれる『テンペスト(嵐)』。この映画を十分に愉しむには、『テンペスト』のあらすじくらいは事前に知っておいた方が良さそう(※1)。
というのも、それくらい視覚的情報量が多いし、ストーリーはほぼ完コピだから。それに、主人公である元ミラノ大公プロスペロー(J・ギールグッド)が物語の語り部・書き手となって、劇中の他の人物の台詞も朗誦するように進む形式がとられているので、前提ゼロだとたまに「いま喋ってるの誰?」とかなりがち。

もう一つ、原作からアレンジが加えられている大きな要素としては、プロスペローの魔法力の源である《24冊の本》の存在。原作でもプロスペローが本を所持していることは明示されているものの、その詳細は描かれない。
映画ではそこを膨らませて、様々な奇書の数々が物語の進行と同期するように紹介され、時にはその内容が画面とオーバーラップする。『水の本』『普遍的宇宙論の本』『ヴェサリウスの解剖学』…(※2)

それらは自然科学から文学、哲学に至るまであらゆる知識がオーパーツ的に網羅されているようであり、だからこそプロスペローは強力な魔法をもったのだろう。彼は、自らを陥れた王族たちや、使役する精霊(エアリアル※3)、娘や漂着する王子といった登場人物たちの運命を「筋書きの通り」意のままに操ってみせる。

しかし、物語の最後で、彼は《赦し》という境地に至り、貴重な書物も処分してしまう。これも勿論、展開としては原作通りなのだけれど、書物という要素が強調されている意味、そして最後に紹介される本が何であるかに、作り手=グリーナウェイのちょっとした意志らしきものを感じてみる。

物語を綴ることで人々の運命をコントロールするプロスペローは、まさに偏執的な秩序にこだわる映画監督・グリーナウェイのようにも見える。彼は、この結末において《映画》という枠から物語自体を解放させたのかもしれない。完璧で、それ故に語り尽くされてきたシェイクスピアをも《水葬》することによって…

『ZOO』にしろ『数に溺れて』にしろ、繰り返す業や運命の呪いから逃れられない者たちの物語を作り続けてきたグリーナウェイのことを考えると、ここには何か新たな心境があったのかもしれない。残念ながら、わたしは今作以降の作品を観られていないので、どんな変化があったのかまだわからないのだけれど。どうにか観て確かめたいところだ。

一方、変わらないものもある。
「この地上に在るいっさいのものは、結局は溶け去って、(中略)あとには一片の浮き雲も残しはしない。われわれ人間は夢と同じもので織りなされている」。この無常観は、グリーナウェイが『ZOO』や『コックと泥棒~』で探求した生命への観察的視点と重ねることができる。

命も物語もいつか終わりがあって、どんな感動も憎悪も後には何も残さない。しかし、だからこそ「その間」は美しく・やさしく・面白可笑しくありたい。
それを助けるのが映画の魔法かもしれず、奇天烈な映画を作ってると思われがちなグリーナウェイさんは、実に真っ当で基本的な映画作家なんじゃあないかと思うのだ。

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※1:戯曲形式で100数十ページなのでそこまでボリューミーでもないし、wikipediaレベルでも十分。

※2:ナンバリングされて次々と登場する書物は、『数に溺れて』で画面上に1~100までの数字を仕込んでカウントアップさせていった仕掛けを思い出させる。

※3:映画の中で少年・青年・中年と3つの姿をとるエアリアルは、『数に溺れて』の3人のシシーと直結。『ZOO』でも、双子とのその中心になる女という3人が安定の象徴となっていて(1人が欠けることによって崩壊する)、3はグリーナウェイにとって大事なモチーフだったのかも。そしてもしや、それはやがてアリ・アスターの『ヘレディタリー』に繋がるのか…?

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『ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師』にて。
https://greenaway-retrospective.com