実際どうなのかわからないけど、おそらく五月革命の終わりについてのオムニバスなんだろうと思う。マルコ・ベロッキオが直接的に五月革命渦中について、ゴダールの短編が五月革命もしくは愛の終わる瞬間について、ベルトリッチがより大きく愛のある世界の終わりについて、パゾリーニとカルロ・リッツァーニはそれ以降の愛の失われた世界についてなので、全体としてみれば五月革命を軸として作品が進むごとに時間が遡っていく形となっているように思う。五月革命=愛というわけではなく、愛、和解の可能性を信じられた最後が五月革命と言う方が近いのかもしれない。ゴダールの短編が最高に良く、『気狂いピエロ』の語り直しのようなものになっている。
カルロ・リッツァーニ『無関心』
逃げ回る女性、それを追いかける男達が動き回るのに対して、それを窓から他人のように眺める人々は全く動かない。事故に遭い助けを求める男は動けない、しかしその姿はダイナミックに捉えられる。それを無視して通り過ぎていく車は対比的に動き続けるが、逃げ回る女性の無軌道な動きとは違い、その動きは規則的なものとなっている。その二つが、規則的に歩いていく歩行者達共にモンタージュされる。規則的と無軌道的な動き、動的と静的が対比的に置かれる。助けを求める人々が動いている場合には周囲の人々は動かず、動かない場合は動き続ける。動かない人々は第三者的な視点、俯瞰的な視点から助けを求める人を他人事として長め、動く人々は主観的な視点にあるからこそ、助けを求める人々が視界に入らない。助けを求める人々がダイナミックに映されるのに対して、大衆の動きは規則的に映される。そして、画面から奥行きが消されることによって、飛行機、車、歩行者の行き交う町は異様な圧迫感を持ち、轟音が鳴り続ける。それによって大衆の規則的な動きが巨大な一つの重機のように感じられ、規則的であるのに調和していない、凄まじい摩擦が発生しているような感覚がある。
筋としては、事故に遭った男の元に現れた警察が、走行中の車を止めて病院に送ることを指示するが、その男は警察に追われる身であり、警察の誘導から離れ怪我人を乗せながらも逃げようとする。しかし、怪我した男の嘆願によって病院まで送り届け、そこで警察に捕まりそうになるが逃げ切り、冒頭に映された群衆の中に紛れ込むというもの。
男は群衆の一部であり、群衆からランダムにピックアップされた存在、つまり群衆を代表する存在となっていて、その男は何かしらの罪を犯している。冒頭のレイプの犯人なのかもしれない。一方で、捕まるリスクを犯しながら怪我人を病院に送るというギリギリの良心をも持っている。そして、男は警察の指示を逸脱することによって初めて群衆の一部ではなく犯罪者として監視機関から認識される。いわば、群衆の一部として動いていれば、つまり助けを求める人々に応じなければ犯罪者として認識されることも、捕まることもない。事実、男は群衆の一部となることによって逃げ切る。
群衆は何かしらの加害者であり、しかし群として動くことで犯罪者とは認識されない。そして、助けに応じることは群衆から個人となる行為であり、監視機関によって犯罪者として認識されるリスクを持つ、だから助けようとしない。そしてそれら群衆は調和せず摩擦を生みながら動作しているため、常にどこかの部分で歪みが発生し続けている、群衆の一部である誰かが事故、犯罪に遭っているということなんだと感じた。
ベルナルド・ベルトリッチ『臨終』
病床にある男が死ぬまでを映した作品。男=社会としてみれば、社会が死にゆく過程が映された作品となる。ここで社会は西洋社会にも、より広くグローバルな社会にも取れる。その男の中には多くの属性の異なる人間が住んでいて、初めは全員で一つの儀式を行なっている。そのうちの一人がキリストの「いちじくの喩え」を読み上げる。いわばその男がキリストであり、その男は異教徒だろう人々を実らないいちじくの木として殺していき、カトリック社会に至る。その後、人々が自分の願いを社会=病床にある男に伝えていく、しかしその願いは叶えられずそれら人々は互いに殺し合う。殺し合いを最後まで生き残ったキリストはその社会=病床にある男によって殺される。そして、社会のうちの全ての人が死んだことになる。それは社会=病床の男の死でもある。そして、それら人々の声は社会の外に聞かれないまま男と共に消えていく。
単純に病床にいる男をそのまま個人だと考えれば、男がこれまでに触れてきた他者の声と共に死んでいくような話に感じられる。男は何かしらのカルト的な宗教の長であり、その宗教はカトリックに転向した男によって崩壊させられ、その後構成員の願いを叶えられないまま内部崩壊に至る。これが構成員ではなく男が過去に触れてきた死者や殺してきた人々を比喩的に描いていると考えてもいいのかもしれない。しかし、男はそれら声を外に発せられない死者達の声を、自分の周囲に伝えていくということはしない。つまり、それら死者を自分の中で殺す。それによって、男もまた死んでいき、彼らの声は聞かれないまま男と共に消える。
呪術的な調和に始まり、死者達の苦しみが人々の発する声、異音、それに合わせた舞いによって不協和音のように表現される。何かが死にゆく過程、その断末魔を捉えた短編として凄まじい完成度の作品。
ピエール・パオロ・パゾリーニ『造花の情景』
ニネット・ダヴォリ演じる青年が無邪気にスキップして人々と交流するその街の姿に、戦時中の映像、人々の犠牲になる姿や権力が確立する瞬間が重ねられる。その少年に対して、天上の人々(戦争による死者達、もしくは神)が語りかける。天上の人々はベルトリッチの作品と同じくイチジクの喩えを持ち出す。ここで、イチジクの実は知恵と意志のことだと語られ、その二つを行使することが天上の人々によって求められる。しかし、青年はそれらの声を聞こうとしない、もしくは聞こえてすらいない。青年含めた街の人々は無垢であり、そのために知恵も意志も行使しない。彼らは実らないイチジクの木であり、街に溢れるのは造花である。彼らに街に存在する過去の声は聞かれない。
ジャン=リュック・ゴダール『放蕩息子たちの出発と帰還』
『気狂いピエロ』のラストに繋がる、一瞬と永遠についての短編。劇中では「放蕩息子たちの出発と帰還」というタイトルのゴダールによる作品が撮られており、その映画の生成過程と、それを見るフランス人とイタリア人男女についての話となっている。
「放蕩息子たちの出発と帰還」は革命主義者のアラブ人と、民主主義者のユダヤ人という、本来重ならない二人の恋人の愛について、いわば重なることのない二つの和解が持続する間を撮った映画となっている。それを見る男女によって、この映画は二人が愛し合い続ける限り永遠に続き、別れれば終わると話される。男女は、永遠に続くか有限なものとして終わるかわからない映画の生成過程に立ち会っている。そして恋人達は、男がキューバ革命に向かうために別れる。それによって映画の生成は終わり、一つの作品として完成する。『気狂いピエロ』はアンナ・カリーナとゴダールの関係性が終わったからこそ完成した映画であり、五月革命の終わりによってゴダールの60年代の連続的な映画の生成は終わり、政治的な映画へと舵を切るようになる。
繰り返される「時間は永遠にある/ない」という言葉は、この和解の時間についてであり、それは有限的なもの、いつか終わるものである。しかし、「(個別的で一瞬である)人生に(普遍的であり永遠)である寓話が入り込む」ように、その一瞬は永遠にもなり得る。和解という行為はそれ単体で見れば個別的なものであるが、歴史上普遍的に行われてきたものでもある。
それは映画に置き換えれば、ムルナウやドライヤーの映画にある、映画の光る瞬間、一瞬であるのに永遠であるような瞬間である。そして、この映画には直接的に光のショット、映画が比喩的ではなく物理的に光るショットが差し込まれる。ゴダールは異なるもの同士が愛し合った一瞬を、作り物の映画の光によって永遠に変えようとする。それが作り物であるのは、引用によって何かの紛い物のような映画を作ってきたゴダール自身への言及いうよりは、今、社会も映画も作り物としてしかその光を生み出すことができなくなっている、永遠を作り出すことができなくなっているということなんだろうと思う。
マルコ・ベロッキオ『議論しよう、議論しよう』
五月革命の時なんで大学でデモしてたんだろうっていう疑問が解消される短編。脚本が非常に良くできていてさらにわかりやすいけど、他が良すぎるので霞む。
大学に通う9割はブルジョワ支配階級であり、支配階級が全体に占める割合は1割でしかない。その卒業率が9割なのに対して、それ以外の階級の卒業率は1割。その大学の講義中に共産主義を望む人々が参加する。大学は教育によって支配階級による秩序を維持する機関であり、教育された生徒達は革命に反対する。教授はナチスによって弾圧された経験を持つ。そこに権威である学長が入り込み、資本主義の中で共産主義を実現する方法を語る。しかし、資本主義下では、共産主義の大学、政党もまた権威的な構造へと変化してしまう。短編の前半では、革命運動の人々が暴力的な存在であるが、最後には権威側の秩序を維持する機構として警察が乱入する。警察は運動家達を整列させ、反抗しない運動家達を殴り続ける。その音はエンドロールが始まってもなり続ける。タイトルにある「議論」は行われず、互いに糾弾しあったまま制圧される。
そもそもこの短編は若者達によって演じられている。運動が秩序によって制圧されている、議論が果たされないことのは何故かをその運動の当事者達がこの短編を通じて訴えている、もしくは議論できなかった理由を内省しているような作品。