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愛のそよ風のmasatのネタバレレビュー・内容・結末

愛のそよ風(1973年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

ミッシェル・ルグランよりエンニオ・モリコーネの方が、その心情を奏でる。
後に追いかけた多くのファンはそう思った事だろう。

同じ事をしない、と言う信条のもと、
想像を裏切り、期待を上回ろうとするのにも程があるクリント史上、最も“謎”な映画として名を馳せる一作。

ただ、それほど酷くない、むしろ面白く観てしまう、不思議な魅力があった。

「そりゃ俺だって若返りたいさ」
と、主人公フランクの友達は言う。この友達は終始リアルである。

また、フランクの離婚した妻がレストランで彼に浴びせかける言葉と振る舞いも、たったワンシーンの登場であるが、リアルである。

そして、マンネリを抱えるフランクの麗艶な恋人も、終始リアルである。中盤、新たな旅立ちの決意をし、自ら(今でも愛するフランクを振り)自分だけを見つめてくれる男と結婚するその元恋人は、新婚直後に車の事故に合い、あっさりと夫を失った。クライマックス、事故直後で額に大きな傷跡をつけた元恋人がフランクに対し、意識が朦朧とする中、切々と語る“人生が終わってしまった”と言う心境、その呪詛の様な一言一言が生々しい傷跡と共に観る者に迫って来る。

フランクは55歳。そんな彼を巡る、中年世代の登場人物たちが、妙に艶かしい。
彼らに揉まれながら、まだ老いてなお盛んな(麗艶な恋人が居ながら、本作のトップシーンは行き連りのマダムとの朝から始まるのだ)彼は、人生の終盤へと差し掛かる頃に何を選択するのか?

人は、出会いによって、毎日が明るくなる時がある。突然の予期せぬ出会いによって、急に輝き出す瞬間がある。
しかし、そんな出会いから新たに始まった日々は、残念ながら、やがて翳りを帯びるだろう。
ただ、最終的に選択した事が、正しいかどうかなんて解らないが、ラストでフランクは自らを嘲笑しながら「まあ一年は続くんじゃないかな」と自らに言い聞かせる。
「うわ!一年も一緒に居られるの!」と、その一言に高揚したのはブリージー。まだ17歳の本作のヒロインだった。

このラストこそ、イーストウッド的な複雑さに溢れている。
先の事は解らないが、まあ、やってみるか、と言う大らかさと共に、そんな上で“一年”と期限を告げる四角四面な几帳面さ。そして、その年の功としての熟年男性の大らかさは、この瞬間よ永遠なれ、と自分自身へと念じているのであるが、片や17歳のブリージーは、たった一年を、そんなに(長い間)二人でいられるのかと大喜びする。
ここ!この瞬間の二人の時間の捉え方の違い、感覚の違いが、ラストの瞬間により浮き彫りにされてしまう。38年と言う歳の差の大きな壁が聳え立つ二人を再認識させ、誰もがラブストーリーに望む
“多幸感”
が一切射さず、突然終わるのである。

よって、イーストウッドが常に目指そうとする、抉り出したいと願う人間の複雑さ、その心理はきっちり描き込まれている一作なのであり、寧ろ、その作家性が解り易く現れているのではないだろうか。

『恐怖のメロディ』(71)『荒野のストレンジャー』(72)そして73年の本作と、この3本を観ただけでも、類い稀でありながら、その臍曲がりな作家性へ、とても魅き付けられる。挑戦的であり、時に実験的な、そんな“歪な”魅力こそ、イーストウッド映画の魅力、さらに言うと、映画そのものの魅惑と信じたい。
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