ニューランド

二重結婚者のニューランドのレビュー・感想・評価

二重結婚者(1953年製作の映画)
4.5
☑️『二重結婚者』及び『拳銃魔』『真昼の暴動』『死の接吻』 ▶️▶️
以前観た事がある『ヒッチハイク』が、映画のあり方・動き・立体、衝動と恐怖の本質を荒々しくも一気に掴み出しそれを持続し続けたある種奇跡の映画だったのに対し、本作は端正というより、TV的な角のないチンマリ内に向かって程よく纏まったようなスタイル・トーンに終始する。電化製品・(中華)レストラン・(ビバリーヒルズ)観光も当時のトレンドとして、抵抗なく取り入れられ、中年版月9みたいなものとして観ればいいのか。しかし、その形状は直接的意味を成さず、演劇的外観を取りながら、劇的集中あるいは異化効果をまるで離れてたゆたい放たれてく『ゲアトルード』と同じ霊気を感じてきて畏れおののく。あのタイトルも似た、内容も夫の正体と愛の間を揺れる妻を扱ったロメールの傑作を上回り、作品はミステリーやコメディにゆけても・寄り道することなく、ただ、全てを気負いなく気づかせず背負って真っ直ぐに方向性としては突き進む。そして実生活でも大きな発見・決断をしたと思った時に限って、それを挫く事件・事故が起こるもので、映画もそこで諦観・悔恨・罪悪感合わさった括りになる事が多い。しかし、ここでは、寂しさ・愛情・家庭観・嘘に関する感情と責任に正直であり続け、タイミングはズレ、関係は複雑化しても、正対し誠実さを貫く姿勢は、揺らいでいるようで決して一番近く痛い所から手離す事はなく、必ず自分に突きつけてゆく、事実を優先させるが、相手の感情・深い忠実に続くものを決して蔑ろにしない。だから、それは結論に至ることはなく、瞬間毎に表現の度合いや相手に届く割合は違っても、常に現実に晒され痛覚と(歪む事もある)達成を感じ続けてる。その意味で裁判に真っ正直に普通に至り、閉廷後、3人が各々の関係と共に過ごした時間の長さ通りに、妻を中心とした2つの関係の捉えが、先に去る者がきゅっきゅっと90゜を描き動き・瞬間の納得笑み放つ正対と離れ、或いは残る者らが長く向き合う形になっても曖昧な感情表現や動作しか取れない、差異となるのも、ある一点を正確に押さえた事自体、継続する果てなさ・その手応えの生の(一時歪んでも本質崩さぬ)悦びの感銘の一時点でしかない。かつ、それは映画的奇跡の到達でもある。
移動・音楽・角度・サイズ・時制・回想は、鋭さや的確さより一歩退いて、エッジを際立てない事にしかはたらかない。しかし、それはボンヤリと見えて、中心・本質を外してないということだ。展開よりも、その事自体の感動は、レイガダスの、殆どドイツ人とそのコミュニティしか出てこない、メキシコ映画の、本国よりドイツ人気質を純粋に保った所から来る、悲劇と感動の傑作、そしてその元ネタのこれもドライヤー作品を思い起こさせる。
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この日は今年の括りの意味で、初見のハサウェイ・このルピノ作を観るつもりだったが、前後ダッシン・ルイスも連続して観た、ノワール特集の個人的2日目だった(『真昼の暴動』『死の接吻』『拳銃魔』『二重結婚者』)。ダッシンは、米時代も・欧時代も大ファンが身近にいるが、私には、社会(暴力)系・寓話(宗教)系・喜劇(土俗)系も、強い磁力・正確なスタイルが感じられず、必ず「爆発」し「止むことはない」映画的動きの実現の為の、駒を揃えて不揃いも、面白いだけの操作・手捌きに集中してるように見えてしまう。世界観・ゴツゴツ実体・絡むキャラの敷き詰め・沸騰は、虚無の結果を越えて、魅力あるが。その点、ハサウェイは厳しい絵作り・状況把握が、本物だと思う。’30年代程の張り詰めはなくも、「悪人(とされる者)しか傷つけないという、警察の汚さ」・勝手さ、限られた人らの各々の(ストレート自己本位な)望みの「叶った」等の非情な現実把握のブレなさは、ウィドマークの怪演と変わらぬレベルで、当初語り手不明のナレーション・キビキビしつつも鏡や檻の囲み・銃の意味と溶け込み、と底の割れぬ厳としたものがある。
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しかし、ルピノに驚くと同じインパクトで、表現世界の至福を感じさせてくれたは、J・H・ルイス作品である。「一生一緒」互いによくても一時的にでも離れられぬ1人の異性と銃への本能的執着、相手を「守る」 覚悟とその手段を得る為に「殺しも覚悟の現実を押し付けてた」矛盾の本質的な罪の認識、現実的自己撞着それ自体、その一体がうたたかも、完全な至福そのものとなる映画の本質が実現されている。主調を作る顔等のCU、そののり出す動きとカメラも一気に寄るあり方は、あからさまな雨や霧の包む一杯のセット世界呈示、角度やうねり変えての走る・車中の危険な程の(迫られて以上の)暴走感、偶然が悪く大きな流れてを作り出し・止めずそこに載って歩幅を拡げる、周囲の理解・拒否を受け入れつつも動き続けるそれ以上のもの、らの角度・サイズ・流れの契機・全ての差異や経過・時系列を無化する、観る者の判断を拒む帯同接近維持感を、明快な感触として代表し、悪びれる所もなく、場をわきまえつつも後退へまわらなく、全ての瞬間・カットが同質の躍動・鋭さを抜けた丸み・先験的至福として、情況を無化した、奇跡的に一切の分け隔て・決めつけのない完全で自由な等質粒状の世界埋め尽くしを実現している、稀なる機会を得る事となる。
社会的にまっとうであり続けて社会を外れてくルピノ作品も、社会性なと端から埒外のルイス作品も、内実の正直・誠実さにとことん忠実でありナチュラルである事(の、現実的には歪みの極みとしての現れ)で、全く同質である。
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