これゎ…ヴィトゲンシュタインやないかい!
いや、それは流石にイキりすぎた気がするので、「ヴィトゲンシュタインでなくはないとも言い切れず、本日はお日柄もよく、奥様」くらいに修正しておくことにする。
というのも、この映画の解釈に、かつて哲人ヴィトゲンシュタインの提唱した《言語ゲーム》の概念がよくハマると思うからだ。
30年間以上、母親とキリスト像による監視・監禁生活を過ごしていたバビー(N・ホープ)が、ついに外へと旅に出る話。
狭く暗い独房のような部屋で、母親から「外の空気は猛毒」と教えられて育ったバビーは、とうぜん他の人間や文化を知らず、非常に限られたコミュニケーション方法=言語(ここでいう言語とは、いわゆる言葉の発話だけでなく、振る舞いの全般を指すものとします)しか持っていない。
そんなバビーなので、外界で出会う人々とは自ずと摩擦・トラブルを起こす。彼は、手持ちの言語に、外に出てから耳や目にした(習得というよりは、拾得した)言語を加え、見様見真似で目前のシチュエーションにコピペするように「使ってみる」のだけれど、結果は往々にして「場違い」「過剰」あるいは時に「敵意」のように受け取られてしまう。生きるのが過酷であるという点では、母親の刷り込んだ虚妄もあながち間違ってはいなかったのかもしれない。
この流れは、他でもないブラックコメディ要素となると同時に、バビーの生い立ちのヘヴィさについての遣る瀬無さや悲しみ、憤り…といった様々な感情を連れてくると思う(特に、バビーの身についている言語の多くが、支配的・暴力的なものであることからも)。まずは、この映画を体験として豊かにしているといえるだろう。
さて、上記のような顛末を目にしたうえで、バビーについてはどのように捉えるべきだろうか。
知的に「遅れて」いる?だからこそ「ピュア」?いやいや危険、それとも病んでいる?「かわいそう」?
もちろん、これらの感想もある側面においては間違っていないけれど、こう考えることもできる。バビーは「外界(われわれ)の《ゲーム》を知らないだけ」なのだ、と。
ヴィトゲンシュタインによる《言語ゲーム》の考えかたでは(以下、めちゃくちゃ間違ってるかもしれませんが)、言語のタダシイ意味の(辞書的な、という言い方もできるかも)理解と蓄積が秩序を作っているの「「ではなく」」、まず人間どうしの振る舞い、コミュニケーションの集積という《実践》のほうが先にある、として世界を観る。
わたしたちの誰もが、赤ん坊の頃に国語辞典を渡されて日本語とか(いわゆる)常識を身に着けたのではなく、周囲の大人を始めとする外界で繰り広げられる多種多様な《ゲーム》に参加して、トライ&エラーの末にルールを体得してきたのと同じだ。
バビーは極めて特殊で限定的な環境で育ったがゆえに、これまで参加できていた《ゲーム》が外界にフィットするには量的に少なく、質的にも偏っていた。彼が人々に向ける言語、言葉や行動は、わたしたちには甚だ的外れに見えても、新たな《ゲーム》に参加するための正当な《実践》のプロセスなのである。
映画の後半、そんなバビーのプロセスは思わぬ形で結実する。道中で出会ったロックバンドに受け入れられた彼は、バンドの演奏をバックに習得・拾得した言語を叩きつける。すると、まるでポエトリー・リーディングのような効果を発揮し(※1)、ついにはカルト的な人気を得るのだ。
つまり、この場においてバビーは、既存の材料を基にしてまったく新しい《言語ゲーム》の創造に成功したのだといえる。観客やバンドメンバーたちは、バビーの発する言語に表面以外の意味や価値を想像・共有することで、ひとつの秩序を形成している。
このことを踏まえると、バビーが脳性麻痺患者たちの言葉(わたしたちの知る範囲での)にならない言語を汲み取ることができたのも理解できる。バビーは、あまりに多くの《ゲーム》に慣れすぎたわたしたちには出来ない方法で、彼らの営む《ゲーム》を読み取って(共感して)、参加したのだ。
バビーの辿った顛末は、コミュニケーションの在り方の可能性について示してくれるものだ。わたしたちの多く(マジョリティ)は、ふだん慣れ親しんでいる《ゲーム》こそが正当であり、万人に共通認識のある不動のルールのもとで動いているといつのまにか思い込んで過ごしているけれど、バビーのような存在の前では誰もがビギナーに戻らざるを得ない。そして、共有したゼロ地点からの想像によって《ゲーム》を共に創造していくことが重要なのである。
さて、この映画をつらぬく主要素のひとつにキリスト教があり、今作においてはその支配的な側面が強調されている。
キリスト教は一神教であることに加えて、神が絶対法の原本を作った大前提に立つため、キリスト教圏では神の名を代行する者(国の治世者や家族の中の長)による支配を肯定しやすい土壌のうえでの生活体系が営まれる。これもまた、キリスト教なるルールの下で行われるひとつの《ゲーム》だ。
バビーの母親は神(キリスト像)による監視によってバビーの行動を制限し、違反した場合は「悪い子」と𠮟りつける。また、父親はなまくら牧師らしいのだが、バビーは父親の祭服を着て《パパ》を名乗り、時には「バビーは死んだ、僕はパパ(※2)」とも口にする。
このように、少なくともバビーにとって、キリスト教は従うべきモデルの存在を強固に刷り込む呪いを植え付けており、継承による暴力の再生産を予感させ、恐ろしい。
バビーは母親から「Be still !(動くな)」という言葉を「受け継いで」いるのだけれど、この言葉は旧約聖書に由来するものだ(※3)。この文言は、適切に用いられれば平穏や安らぎをもたらす機能を果たすだろう。ところが、バビーにとっては人を強権的に支配して行動を制限するための呪いでしかない。
しかし、バビーは道中で出会ったとある人物から「神は誰も助けてくれないのだから、そんなものに頼らず自分の人生に責任を持つべきなのだ」という教え(※4)を授かる。その教え(や付随する様々な旅の経験)によって、バビーはその呪いを反転させる。
上述したような他者との《ゲーム》の再創造、そして自分と同じようにキリスト教と家族によって縛り付けられた人物を《解放》し、やがてバビーと映画はとある結末に辿り着く。その最終的な姿は、もともとのバビーの境遇をある意味で再生産したようにも見えつつ、だからこそ意味や価値は真逆のごとく異なることがわかる。
人は、生きていく以上すべての《ゲーム》から自由になることはできない。しかし、ルールを書き換え、《ゲーム》を作り変えていくことはできる。ヴィトゲンシュタインが考えに考え尽くしてなお信じたであろう人間の可能性を、バビーは確かに体現しているのだ。
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※1:ちょっとニック・ケイヴっぽいなと思った。
※2:もちろんこのパパはキリスト教の「父なる神」のイメージとも重なるところだ。
※3:Be still, and know that I am God.
※4:めっちゃニーチェっぽくもある。また、別の人物が告げる「どの宗教もお互いに争いを繰り返してきた、お前はそうなるな」というのも呪いの再生産の回避に繋がっている気がする。