きゃんちょめ

キャビンのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

キャビン(2011年製作の映画)
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【ホラー映画とはなにか】


【ソマティックマーカー理論】

ダマシオのソマティックマーカーという理論がある。情動と理性はどちらも合理的であるという衝撃的な理説だ。ホラー映画では、情動に忠実な人物ほど死なない。逆にオバケや超常現象を経験的事実から推論して信じない理性的な人物ほど、のちのちとんでもない災厄をもたらす。ゾンビのドラマ『ウォーキングデッド』では、だんだん回を重ねるにつれて、主人公のリックが情動的な人間になっていく。では、なぜ主人公が情動的になっていくのかといえば、妻が死んだり、赤ちゃんが流産したりする、というのがその理由ではあるが、それだけではない。というか、本当の理由はそれではない。情動的な人間にならないと生き残れないからだ。生き残るためには、適切なときに適切な情動が起こらないといけない。まさに情動は、生命の生存からいって、合理的な脳内モジュールなのだ。

【では、モジュールとはなにか。】

モジュールというのは、自分の専門の計算対象を持った脳内計算プログラムのことであり、自分の専門情報が入力されると計算して出力するが、自分の専門情報でない場合の入力は撥ね付けるシステムのことである。これがどんな人間の脳にも入っている。だから、飛行機恐怖症の人に、いくら飛行機が統計学的に電車より安全であることを示してもなんの意味もない。なぜなら、脳内の恐怖モジュールは、『飛行機で空を飛んでいる』という専門情報以外は計算しないからだ。計算すると恐怖情動は出力される。こういう例を以下に挙げる。

⑴たとえば、非常に有名なミュラー=リヤー錯視は、二本の線分の長さが同じであることを説得されて、信念体系が再編されても、まったく二本の線分の長さの<見え方>は変わらない。やっぱり錯覚が見え続ける。理性による納得はなんの意味もない。

⑵たとえば、不登校になった子供は、いくら学校にいくように説得しても何の意味もないし、逆効果だから、そういうお説教は、子どもがかわいそうなので、即刻やめるべきだ。なぜなら、一度『学校に行きたい!』というテンションが下がると、理詰めでいくら説得しても動機にならないからだ。

⑶大学に行くのが正しいことがいくら分かっていても、情動的な傾向性がないと動機には全くならない。まして大学というところは友達ができにくい(=だからこそいじめが起きにくいのだが。)から、情動的な傾向性すなわち<習慣>は作りにくい。つまり、一度大学に行けなくなったら大学生は終わりってわけだ。そのまま単位を落としまくり悪循環になるのは目に見えている。だから大学にはとりあえず行っとけ。<習慣>にしとけ。<習慣>にしとかないと、すぐに行けなくなるぞ。

さて話を戻そう。

⑷では、スポーツ選手がやっているメンタルトレーニングとはなんだろうか。あれは、強制的に情動的になれるようなルーティンのアップテンポミュージックを聴いたり、最高のパフォーマンスをしている自分をイメージをすることで、後で話す情動領野を活性化しているのだ。ヤル気をだしたくなるような仕組みを、ヤル気のあるうちに作り出しているってわけだ。

【脳計算システムのまとめ】

つまり、脳はひとつの大きな計算システムではなく、ある特定の情報だけを計算して、他の情報は撥ね付けるモジュールなのだ。だから、理性による説得は恐怖に対して、実はなんの意味もない。それどころか、理性に対して情動の方が長い目でみると合理的であるという奇妙な状況がしばしば起こることになる。

たとえば、明らかに理性で考えれば『有能で優しそうなイケメン』が、実はサイコパスだったりするわけだが(=『アメリカンサイコ』)、それを女性は直感的に見抜く能力があるらしい。【つまり、身体的反応(=ソマティック反応)は、同時に対象への評価でもあるのだ。】これを女性たちは"第一印象"と呼んでいる。むしろ、このような極めて高度な脳内計算すなわち知的評価と情動的評価の一致がうまくいかず、それらが乖離している人こそ、恐怖症と呼ばれ、危険である。

まさにこういう、情動と理性のせめぎあいこそが、面白いホラー映画を可能にしている。

さて、以上の諸理論から、素晴らしいホラー映画とはどんな映画か、に関する重大な原理が演繹できる。

【素晴らしいホラー映画とは、主人公が怖がるべきところで怖がるべきなのに怖がらないことを観客が怖がる映画である。】



主人公と一緒に鏡像効果で怖がっているだけのホラー映画は生命の原理から言って、大して怖くない。人間は恐怖に直面したとき、身体には鼓動・瞳孔収縮・顔面血管の収縮・手足の振動・口内の乾燥が生じる。これらがミメーシス(=模倣)となって、役者から観客に伝染するわけだが、これらは真の恐怖とはなりえない。むしろ、パッケージされた恐怖が先にあって、その模造品が観客に伝わっているだけだからだ。


【ホラー映画のフラグについて】
セックスやドラッグに興じる若者が速攻で死んだり、臆病者じゃないやつが速攻で死んだり、『すぐ戻る』と言ってしまったやつは速攻で死ぬ。それも情動で説明できる。情動のコントロールがうまくできていないから死ぬのだ。それが分かるから、観客は怖がる。ホラー映画は、情動がいかに大切かを教えてくれる貴重な作品群である。

情動とは、デカルトが定義した通り、驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみである。恐怖は驚きに属するらしい。デカルトはこれを理性の邪魔者であるとして抑圧しようとしたが、まさにそれによって、彼らは合理的でいられなくなって死んでいく。そこがホラー映画の素晴らしいところである。


【理性を重んじると死ぬぞ】
それを整理するために、私が先ほど述べたダマシオの理論は有効になってくる。情動がないと、我々は合理的に行動することができないのだ。脳内には情動を司るVMPFCという領野があるが、ここを損傷した患者は合理的な行動が取れなくなる。つまり、VMPFCを損傷した患者が不合理な行動を取るのは、理性が低下してるのではなく、情動が低下しているからなのだ。情動が低いから、理性的でなくなる。

つまり、逆に言うと、ものすごく理性的な人間は、実際にはものすごく情動的なのだが、それを隠しているということだ。なぜなら、【理性的であることは、理性的でありたいという情動があって初めて可能になっている】ことが、この研究から分かるからである。


【恐怖症について】
しかし、たとえば、日本の落語では<まんじゅう>を怖がる人や、<柳の木>を怖がる人が出てくる。これは、不適切な対象に不適切な強度で恐怖という情動を持つ人は、滑稽でもあるということだ。これこそが、ホラー映画がコメディ映画と紙一重である理由である。たとえば、『スペル』や『キャプテンスーパーマーケット』や『キャビン』や『スクリーム』『ゾンビランド』などは、この構造を利用したコメディである。極限状態を作り出して笑いを取りに来ている。

あまりにこわい極限的な状態は、笑いに容易に結びつく。これは、ジョルジュ=バタイユが研究したテーマでもあった。

(同じ哲学者だとベルクソンの『笑い』という本も有名だが、あれは持続が停止して機械になる瞬間のズレについての笑いだ。シャルルボードレエル『なんでもいいから酔ってしまえ。』っていう笑いも少し違う。)



【映画理論からの接近】
ただ、ここでは、久しぶりに哲学者たち(フロイトなら"ハイムリッヒ"という概念を使って精神分析にしてしまうだろう。)ではなくて、ノエル=キャロルとローズマリー=ジャクソンという2人の映画理論家の理論を対比させて考えてみよう。どちらも本質をえぐっているので、2人とも見ることで、ホラー映画とは何なのかがよくわかってくる。

①ノエル=キャロルによれば、ホラー映画とは19世紀になって発明された社会的構築物である。たとえばメアリー=シェリーによる『フランケンシュタイン』より以前にはまだホラー映画というジャンルは確立されていなかった。彼女によると、ホラーの恐怖には嫌悪感がその根底にあるという。だから、怪物はみんな人間が生物学的に嫌悪感を催すような表象になっている。ホラー映画における怪物は、いつもベトベトしていたり、腐っていたり、異質なものが寄せ集まっていたりする、嫌悪感を触発する存在(サルトルの存在観はコレである)なのだ。ジキル博士とハイド氏や、オスカー=ワイルドの『ドリアン=グレイ』、狼男やフランケンシュタインの怪物をイメージして頂ければ、すぐに納得できることだが、これらは"分裂した自我"の表象である。つまり近代人からしたら、誰もが思い当たる<ひとつの謎>として映るのである。そしてホラー映画の快楽をキャロルは<認知的快楽>だとしている。超常現象が起きてその真相が観客に知らされるのが遅らされ、焦らされる。物語構造に由来する発見→証明→確証→説明という認知的な喜びこそが、ホラー映画の快楽だとキャロルは主張するのである。また怪物も、異形であるからこそ、むしろ観客の好奇心を刺激しているという。つまり先ほど述べた嫌悪感とは、その後に観客が得ることになる認知的な快楽の対価だというのだ。

これは、いささか乱暴な解釈のようにも思えるが、しかし例えば、岡崎京子の『リバーズエッジ』という作品は、ごく普通の女子高生である若草ハルナが、元彼氏の観音崎にいじめられている山田という同性愛者の同期を助けたことをきっかけに、彼から秘密を打ち明けられるのだが、それは河原に放置された人間の死体だった、という話である。ここに見られる、謎の提示→発見→証明→説明という物語構造全体を使って焦らしていく死体発見までのプロセスはたしかに不穏さがありながら、小気味好く見ることができる。

しかしあくまでもキャロルは、ホラー映画が、『恐ろしいにもかかわらず楽しいのはなぜか』という説明に終始しており、『恐ろしいがゆえに楽しい』という説明を看過してしまっている感は否めない。

②一方、ローズマリー=ジャクソンは別の立場をとる。ホラーはあくまでも、さながら、町山智浩の映画評のように、政治的に見られるべきだというのだ。これをホラー秩序転覆説として彼女はまとめている。ホラーは、そこにあってはならないもの、つまり<ハイムリッヒなもの>を怪物として提示することによって、ある特定の文化の優位性・概念的枠組み・価値観を攪乱し、その枠組みが外れることによって得られる開放感こそが、ホラーの快楽だと述べている。たしかに、一部のホラー映画には、その当時の世相を反映したかのような怪物が現れる。言ってはいけないけれども、実はみんなが持っている罪悪感のような恐怖が形象化してくるのだ。初期の『ゴジラ』などはまさに原爆を思い起こさせるその皮膚のケロイドが、人々にえもいわれぬ恐怖を喚起したホラー映画としても受容されていたに違いない。たとえば、アメリカでは第二次世界大戦の時期にホラー映画が量産されたり、ベトナム戦争の時期にホラー映画が量産されたりしている。1990年代、ポール=ビリリオが<第一次世界内戦>という概念を唱えていたころ、ホラー業界も一挙に活気づいた。日本でも『失われた20年』と呼ばれる不況期間は、ジャパニーズホラーはむしろ大収穫ばっかりであったことは記憶に新しい。ホラーは閉塞した時代を、その解決不可能性において内破(=ジャン=ボードリヤールにおけるインプロージョン)させているのだ。またそのホラー特有の<ものの見方>を揺さぶられるような快楽についても、社会通念による抑圧が普段から高い社会の人にとっては、納得がいく部分も大いにあるだろう。

ホラーに接することは、言って見れば、【ぶっ殺すことの肯定】でもある。<破滅型の生の讃歌>であると言ってもいいだろう。普段見ないことにはしているが、実際には血みどろのリアルな生命譚が観れるというわけだ。たしかに言われてみれば、『エイリアン』も血みどろで生まれてきたし、『ローズマリーの赤ちゃん』も妊婦の映画である。というか、ホラーには妊婦が出てくるものが多い。ホラー映画は、生命そのものが持っているのに、普段は抑圧されている血みどろの側面を開放しているのだ。この解釈にはそれなりの説得力がある。しかしこれも、ホラーを政治的に見すぎている嫌いがある。怖さそれ自体の説明を切り離している感が否めない。

【はたして、恐怖それ自体が、本当に不快なんだろうか。】

人間は、バンジージャンプなど、恐怖それ自体を楽しむことができる、という側面もたしかに持っている。恐怖に接すると、人間の脳ではエンドルフィンという鎮静作用と快楽を同時にもたらす物質が放出される。これを映画館という安全地帯にいながら享受できるのがホラーなのではないだろうか。その証拠に、恐怖を感知する扁桃体は快楽の座でもあるのだ。つまり、ここをよく考えてみると、ホラー映画はそれ自体が極めて快楽的である、という結論が見えてくる。人間は進化の過程で様々な表象を生み出す能力を手に入れてきたが、実在しないものを怖がることすらもできるようになった。リュミエール兄弟が19世紀の終わりに、<機関車が駅に入るシーン>を流したら映画館から慌てて逃げ出す人もいたのに、今は映画館から逃げ出さずにその快楽だけを享受できる。

ホラー映画、素晴らしいではないか!
きゃんちょめ

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