【アルフレッド、ドッチイック?】
終わって首を傾げてしまった。狙いがよくわかりません。天才と言われたヒッチだって、普通の男と同じくこんなふうに悩んでましたってことでしょうか?でもこの程度なら、わざわざ映像化せんでも想像つきます。
知られざるアルマさんを描きたかったこともわかりますが、彼女個人のエピソードもありきたりで、大して面白くなかったです。
で、本作は『サイコ』制作の困難を通じてヒッチとアルマの人間性、その関係を炙り出す映画でしょうが、肝心なところで『サイコ』から離れていってしまうことが、私はどうも腑に落ちませんでした。
例えば、アルマの「よろめき」話が『サイコ』の内容と絡まないこと。
原作「メイキング・オブ・サイコ」にもこれは、一切書かれていません。当然、それが『サイコ』制作に影響あったかどうかもわからない。また演じたヘレンさんが、ニューヨークタイムズの記事で、証拠がないし多分なかったこと…と語っていることも知りました。あれは創作の可能性がそうとう高い、ということなのでしょうね。
私はみていて、これ何の映画だっけ?とだんだん冷めてしまいました。
ヒッチのアルマに対する愛憎を描くなら、ノーマン・ベイツの母、ノーマにアルマを投影してしまうことも、アリだったと思う(笑)。アルマはヒッチの母でもあった、というのも言いたかったようだし。ヒッチ、キレてキル!の嘘くさいシャワーシーン演出をやる位なら、それくらい面白く膨らませた創作を、みせてほしかったです。
一方のヒッチ自身は、彼が妄想するエド・ゲインの精神性とじわじわ、シンクロしてしまいますが、これも『サイコ』から離れる要因でした。
原作者ロバート・ブロックが生んだのはノーマン・ベイツであって、エドをモデルにしていても、『サイコ』はあくまでノーマンの物語。ヒッチがシンクロするならまず、ノーマンが先でしょう。
その上で、よりエドに惹かれてしまう…という構造ならわかりますが、ノーマンを全く無視するから、やっぱり『サイコ』から離れてゆく。だからか、折角ジェームズ・ダーシーが、アンソニー・パーキンスのナイーブなところを巧く出しているのに、その先がまるで膨らまない。なんだか本作での彼って、部外者みたいに映りました。
憶測すると、原作サイコの映画化を決めたのは戦略的なものが大きく、ノーマンにシンクロする、というのは実際、考えづらいから、ヒッチの危うさ(と異常性?)を醸すのに手っ取り早くエドを使った…ということかとも思いますが、安直だし、原作の功績も無視していて、ロバート・ブロックに失礼でないの?とさえ思ってしまいました。
まず、基本のところでの疑問は、そんな感じです。
作劇的に一番気になったのは、映画完成で逆転するカタルシスの弱さ。初期編集版がどう悪く、そこからどう変わったか伝わりづらいですね。アルマの功績と、音楽バーナード・ハーマンの大功績を一緒くたのように見せちゃったことが、影響大きい気はしましたが。
だからか観客試写でのヒッチ芸(笑)が、名場面なのに孤立し勿体ない。サスペンス、という意味を活かした最後の台詞も粋なんですが、やはり私にとっては、そこだけ孤立した名台詞で終わっちゃいました。
アンソニーのなりきりは楽しかった。レクター役の目ヂカラは封印し、今回は話ヂカラに集中。口元中心に見ると、まさしくヒッチですね。
ヘレンさんは相変わらず達者ですねえ。彼女はみ応えありました。枯女だけど可愛らしさも色気もあるし。白ブラジャーで登場、は、マリオン役を意識してますね。アルマじゃ満足いかないヒッチが、これを見てジャネットにやらせた…という含みもあるのかな?(笑)
スカジョさんのジャネットは、本人より可愛らしさが強いものの、悪くなかったです。あの明快さはジャネットらしい気がしますね。
ジェシカさんのヴェラは、ちょっと下品に転んでおり感心できず。ブロンドのヅラが、聚楽よ~の偽マリリン(古!)より嘘くさくて…。
あ、犯人顔のカートウッド・スミスが映倫トップなのは笑えました。あと、ジョセフ・ステファーノがラルフ・マッチオだったってこと、まったく、気づきませんでした…。
音楽は、ハーマン節とエルフマン節が混じる瞬間が気持ちよかった。音楽含め、映画を「ヒッチコック劇場」でサンドしたことはよかったし、あんなウィットを、全篇で効かせてほしかったなーと思いました。
<2013.5.14記>