冒頭から目を覆う展開。
60年代に日本で任侠ものが開花、その暴力描写が輸出され、たとえばジョン・ウーやタランティーノのような映画監督がそれをポストモダン化する。それがさらに逆輸入され、その返歌となる嚆矢が、園子温の『冷たい熱帯魚』の暴力描写だったのではないかというのが、とりあえずの私の見立て。本作は、不快さにおいて、その延長線上にある映画。それだけ、ベースになる実話の犯罪が、日本においても「成熟」したとも、いい得る。
犯罪の成熟ぶりは、昨今も目を瞠るものがあります。映画が先か、犯罪が先か、とちょっといいたくもなってくる。こんなもの、世に出していいのか? と。
ただ、映画も小説もどこまでいっても「表現」ですからね。『ファニーゲーム』を見てジャック・リヴェットは憤慨して途中退席したようですが、どうなんでしょう。ハネケもリヴェットも(なんならラースも)、私にとってはいずれも尊敬する映画監督です。
『ファニーゲーム』にせよ『ハウス・ジャック・ビルト』にせよ『ありふれた事件』にせよ、さすがにやり過ぎなわけですが、見手としては、作り手が作中に刻印しないではいられない「弁明」といいますか、彼自身の怯えの刻印ですよね、それを触知することが、映画の正しい鑑賞法という気がするし、見る喜びに通じると思う。
「共感」という言葉が巷間に流布するようで、作り手の少なからずが、この言葉にアレルギー反応を示すのでもある。まあ、たしかに、「この作品は、この人物は、共感できなかった」とか言われたら、ちょっとムカつきますものね。共感を狙ったら、凡人しか描きようがなくなりますもの。卵かけご飯が最高ですって言ってる人に、いくらフランス料理の真髄を説いても無駄。なのに、こういう輩に限って、フランス料理を食いたがる、みたいな……ちがうか(笑)。共感ベースの人って、そもそも人に共感する気がないとも感じられるし、要は自身の閉鎖性(限界)の表明になりかねないという危うさがある。イタいってやつですね。
もし仮に本作に見手が共感するとしたら、監督なり脚本家なりが作中に織り込まずにはいられなかった、贖罪意識に対してかなあとは思う。
終盤の、池脇千鶴のセリフがすべてでしょう。だからこそ、不快極まりないものまで、私たちは見てしまう。フランス料理の究極が、人肉料理であっても、食べてしまうかもしれないのである。
というわけで、白石和彌監督の作品を、図らずも時系列を遡る形で見てきたわけですが、この作品が一番私にはしっくりきました(これも共感表明か……)。相変わらず男の美学は健在ですし、女からの批評に絶えず晒されるという点で、ポリコレ的なバランス感覚も堂に入ってる。破綻はない。つまり、フレームがしっかりしているから、有名俳優たちが、誰一人浮くことなく、作中にピタッと収まっている。それは、やはり凄いことなんじゃないか。
ピエール瀧。素晴らしい俳優です。劇中でもシャブ打ってました。そんなの、笑い話。あの凄みはね、ちょっとほかの役者には出せないんじゃないかな。この人、元は音楽家ですし。
あと、言わずもがなのリリー・フランキー。この人は、やはり声ですね。善も悪もいけるんだ。
役者を活かす、という点でも、白石和彌という監督の特異性があるように思います。