まぬままおま

海がきこえるのまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

海がきこえる(1993年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

君の二の腕がどんな感じだったか、忘れてしまった。

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異性愛の物語ではないような気がしている。
杜崎がラストで里伽子のことを「好きだと思った」と言っているが、何か違うと思う。彼がそれを「好き」と名付けるのは別に構わないけれど、「と思った」と言ってる時点で意識との距離があるし、この感情を「好き」としてみる仮初めさを感じる。

全部が仮初め。大人のふりをして決めること。けれど彼らはまだ大学1年生の夏を過ごしているに過ぎない。彼らは子どもと大人のあわいであって、海と陸のあわいを生きている。そして彼らは友情と恋愛感情のあわいの渦中にいる。

恋愛の定型表現がことごとく異性愛の物語に回収されない。

杜崎が固定電話のコードを延長し電話をする印象的なショット。でもその相手は実は里伽子ではなく松野である。驚いた。異性愛規範にどっぷり浸かっている私は、てっきり里伽子だと思っていた。けれど松野である。しかも彼らの会話は、内容としては里伽子のことだけれど、中身がない様は定型表現のカップルの電話のようだ。

杜崎は松野のことを「親友」と定めてはいる。けれど二人の様に恋愛感情を勘ぐってしまうのは私だけか。もちろん彼らはきっぱり断っているけれど、それを恋愛と定める自由はある。

杜崎と里伽子の出来事も、修学旅行という学校制度における旅行の「失敗」から私的な旅行で関係が進展するのかと言えば違う。里伽子の家族の事情を知っても、ホテルに一緒に泊まっても、未成年飲酒をしても関係は縮まらない。それを定型から「失敗」したやるせなさと受け止めることはできる。けれどもっと斬新さがある気がする。

本作は高校時代の思い出を写真化してノスタルジーに語る。だがそんなに高校時代は遠くにないと思う。彼らは高校を卒業してたかが3、4ヶ月。高校時代の思い出はまだ彼らの現実と地続きにあるはずだ。しかし杜崎が東京に行ったり、小浜や明子が化粧をしていたりー小浜は里伽子にそっくりだー、彼らが酒を飲むことで高校時代が遠くにあると偽装されている。このことは本作の意図された騙りだと思うし、素晴らしさだ。

彼らは高校時代を懐かしみ、あの頃の行いは子どもだったと振り返る。けれどそう振り返る彼らもまだ子どもであるし、その子どもさに気づけていない。彼らは大人に高校時代よりも近づいている。だがあわいにいる。そしてどんな人生を進んでもいい海と留まったり帰省できる地元という陸のあわいを生きている。さらに友情と恋愛感情のあわいにも。

だがその時、疑問が生じる。大人になったら友情と恋愛感情を峻別できるのかと。杜崎は20歳を超えたら里伽子を「好きだと思った」から「好きだ」と判断できるのかと。

多分できないと思う。そしてそれは悪いことでもない。

友情と恋愛感情は波のようだと思う。友情と恋愛感情の領分は寄せては引いていく波のように〈私〉の中でせめぎあっている。そのあわいに〈私〉がどう身を置き、仮初めに言葉を定めるかでしかないと思う。

この時、物語は彼らのあわいを語るだけではなくなる。杜崎は高校時代を友情でしか物事を考えられず里伽子との恋愛に失敗したわけではない。松野との関係は何となく結び直されるし、里伽子との関係も始められる。もはや友情か恋愛感情かでもない。そのせめぎ合いの中をただ生きている。それは普遍的な人間性を語っているように思える。

だからこそ多くの人に響くのだ。そしてみたときの年齢や状況で響き方が全く違う。

海がきこえる。
そして波が、みえた。