Jeffrey

怒りを込めて振り返れのJeffreyのレビュー・感想・評価

怒りを込めて振り返れ(1959年製作の映画)
3.8
「怒りを込めて振り返れ」

〜最初に一言、根強い階級社会、戦後イギリス経済の不況に生きる若者たちの苛立ちを代弁した英国映画の傑作で、「長距離ランナーの孤独」でブリティッシュ・ニューウェーブを牽引した鬼才トニー・リチャードソン初の長編監督作品にして主演のリチャード・バートンが圧倒的な存在感を見せつけ、監察官役の若き日のドナルド・プレザンスの陰湿な存在感もたまらなく最高な1本である。時代のアンチ・ヒーローを生んだ記念碑的作品である〜

本作はトニー・リチャードソンが1958年に根強い階級社会、戦後イギリス経済の不況に生きる若者たちの苛立ちを代弁して一大センセーションを巻き起こしたロンドン出身の劇作家ジョン・オズボーンの出世作の映画化で、ブリティッシュ・ニュー・ウェーブを牽引した初の長編監督作品である。この度紀伊国屋のDVDを久々に見返したがやはり素晴らしい。「Trainspotting」とかが好きな人もしくは一筋縄ではいかない現代のイギリス映画が好みの人にはオススメできる1本である。戦後のイギリス文壇、劇壇史に置いて、1956年、ロンドンのロイヤル・コート劇場で初演されたジョ-ン・オズボーンの「怒りをこめて振り返れ」は未曾有の文学的事件として記憶されているようで、福祉国家となった戦後イギリス社会に生きる若者のやり場のない怒りや苛立ちを代弁したこの舞台は、一大センセーションを巻き起こし、以後、それまでまともに取り上げられることすらなかった労働者階級の生々しい生活を主題にした演劇、小説、映画が、陸続と発表された。

このオズボーン作品から、"怒れる若者たち"と言うジャーナリスティックな呼称が生まれたのは周知の通りである。そして初演の舞台を演出した、フリー・シネマの旗手トニー・リチャードソンが長編デビュー作に選んだのも「怒りを込めて振り返れ」であったとの事だ。「怒りを込めて振り返れ」が、空前の賛否両論巻き起こしたのは、主人公であるジミー・ポーターの強烈なキャラクターによるものだったそうで、初演の際、絶賛した劇評家は、ジミー・ポーターを"デンマークの王子ハムレット以来、わが国の文学における"最も完全な青臭い若者"であると評し、シェイクスピア研究の奏斗・小田島雄志氏も、時代をかき回し渦巻を起こさせるだけの混乱を内側に抱え込む鼻持ちならないアンチ・ヒーローとユニークな定義をしていた。リチャードバートンは、あらゆるものに反抗して何よりも無力な自分自身への憤怒を抱えた矛盾の塊のような、およそ、見る者の共感を完全に拒む屈折した人物像を陰影深く演じている。

それにトニーリチャードソンの若々しい映画的な才気がみなぎっているかのような、ドイツ表現派のサイレント映画の登場人物のごとく、動から静への鮮やかな画面転換は衝撃的だ。これがデビュー作なのだから驚かされる。演劇と映画的手法が不可分な形で共存するのが本作であり、リチャードソンは、この映画に「逢いびき」と「霧の波止場」へのオマージュだと言っているが、そのラストシーンはまさにそうである。フリー・シネマを牽引した彼の盟友リンゼイ・アンダーソンが、後にマルコム・マクダウェル主演で「怒りを込めて振り返れ」をリメイクしたのも、その映画的な初心、原点に立ち返ろうとする意思の表れだったのかもしれないと言われているようだ。前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。


さて、物語は先の戦争には勝ち、他国も羨む福祉国家を標榜してはいるものの、根強い階級社会、戦後経済の不況に生きる若者たちの苛立ちは頂点に足している。舞台はイングランド中部の大きな街。街のジャズクラブには週末の夜を楽しもうと、多くの若い男女がたむろしている。そのクラブのステージでトランペットをたたきつけるように吹く男ジミー、年齢は25歳。彼は強情で自尊心の強い男だ。反対を押し切って結婚した中流階級の妻アリソンとは、最上階のかなり大きな屋根裏部屋に住んでいる。その夜もジミーは、ジャズクラブで観客の歓声に応えてトランペットを吹いていた。高質な音色が若い心にグイグイ食い込んでくる。ステージで一気に音階を駆け上り屋!憂さを晴らしたジミーは、クリフに一声かけると気分よく帰路につく。帰る道々、寝静まった夜の街に音のかけらを吹き散らす。その音は意に反して美しくこだまする。

ある日曜の朝。横殴りの雨が降っている。隣の部屋に間借りするクリフとは、日曜新聞の記事にいちゃもんをつけて毒付いている。ジミーは世の中のこと全てが気に入らないのだ。そんないつもの日曜の朝の2人の光景をアリソンはアイロンをかけながらそっと見守る。開け放たれた窓から近くの教会の鐘の音が響く。新聞にもクリフとのやり取りにも飽きたジミーは、その傍若無人の鐘の音に業を煮やし窓に向かって怒鳴り散らす。そしてそのままの勢いで理由もなくアリソンにも毒付く。朝から苛立つジミーとその抑えられない心情に困り果てたアリソン。彼がひょんな事からクリフとじゃれあって、彼を突き飛ばした。勢い余ったクリフがアリソンとぶつかる。アイロン台ごと倒れるアリソン。一瞬驚くジミーだがアリソンの怪我が軽症の火傷だと知ると、そそくさと外へ出て行ってしまう…。

一応大学が出たけれど、仕事にあぶれ今はクリフとマーケットで駄菓子売りをして生計を立てている。監察官のハーストが、一言二言ケチをつけていく。イラつくジミーだが、今はじっと我慢だ。その日、アリソンは医師の診断を受ける。妊娠を告げられ、これからは主人の協力がいると。どうにかできないでしょうかと相談する彼女に医師は、それは相談されなかったことにしてほしいと忠告。もう逃げることができない。マーケットではママ・タナーが訪ねてくる。1年前にこの市場での権利をジミーに譲った恩人だ。2年前にアリソンと結婚した彼には住む家も仕事もなかったが、彼女の好意で今の仕事を得ることができた。彼女は夫の墓参りに来たついでに、彼の店に顔を出したのだ。近くのパブで久しぶりに近所を語り合う。

そこに診察帰りのアリソンが立ち寄るが、間が悪い。ジミーはアリソンがタナーを毛嫌いしていると勝手に思い込んでいる。妊娠のことを切り出そうとしてもジミーの不機嫌な顔を見ると言い出せない。彼はアリソンに小言をぶつける、さっさと彼女を置き去りにしてタナーと墓参り。その足で駅まで見送った。アリソンの友人ヘレナから電話が入る。地方巡業で近くへ行くから公演中泊めてくれないかと。不安はあったものの話し相手ができると快諾するアリソン。店を駅まで見送ったジミーが部屋へ戻ってくる。アリソンを見るなり今朝の行為を許してくれと真撃に謝るジミー。受け入れるアリソン。いつだって君が欲しい、知り合った頃の2人に戻り愛を確かめ合う。ヘレナが訪ねてくる。ジミーの最もそりの合わない中流階級の女だ。彼は突然の来訪に不機嫌が頂点に達する。

ヘレナへの憎悪を吐き出すかのように、隣近所の迷惑もお構いなしに、階段の踊り場でトランペットを吹き散らす。家主の婆さんから早速苦情が。彼はヘレナへ嫌味なセリフを残すとクリフと連れ立ってクリス・バーバーの出るジャズクラブへ。ジミーとアリソン。そしてクリフとヘレナの奇妙な同居生活が始まる。2週間もだ。初日の朝から気まずい雰囲気だ。その日、ジミーとクリフがマーケットへ出ると新参のインド人が屋台を出す準備をしている。早速監視官ハーストが許可証を持ってやってきては一言釘を刺していく。イヤミなやつだ。ふとジミーはヘレナの出演する"忘れられた心"の稽古があるの思い出し、クリフと仕事も放り出し冷やかしに出かける。袖から吐きそうだったと言って、アリソンにたしなめられる2人。

演出家からダメ出しの合図が入ったときに、舞台に飛び入ってはちゃめちゃに。日曜の夜。ヘレナはアリソンを誘って教会へ出かけると言う。これまで何に耐えてきたかと切れるジミー。俺かヘレナかどっちかを選べと迫る。父母の元へいちど度帰った方が良いと論すヘレナ。ジミーに電話が入る。タナーが脳卒中で倒れたと。階段下で2人に出くわすジミー。汽車が30分後には出る。人が1人苦しさの中で死んでゆく。一緒に行ってくれないかとアリソンを促すが、彼女は無言でヘレナと教会へ。彼は1人で病院へ向かう。ジミー、お前にはやることがある。そう言い残して、ママ・タナーが死んだ。寂しく厳しい人生だった。大佐だった父がアリソンを迎えに来る。軍人として長くインドに駐在した父親。ジミーと言う男は不可解な男だと非難する父に対して、時代が違うのよとジミーを弁護するアリソン。

ヘレナの進言で彼女は静養を兼ねて父母の元へ。曇り空の下、彼には告げずに部屋を後にするアリソン。見送るヘレナとクリフ。タナーの死を見届けたジミーが部屋に戻ると、アリソンの置き手紙が。はらわたが煮えくり返るような怒りが彼を襲う。ヘレナに怒りの矛先を向けると、彼女から初めてアリソンが妊娠していることを告げられる。彼は返す刀で大事な人が死んだ。馬鹿な女が妊娠したからそれがどうしたと開き直る。彼女の平手打ちが飛ぶ。ふと我に返るジミー。そのジミーの萎れていく心を支えるように手を差し伸べるヘレナ。そのまま倒れ込むようにして抱き合う2人。タナー埋葬の日。ヘレナの公演も無事終了した。楽屋へ戻ると放心状態のジミーがいる。間違った人が愛され、間違った人が死ぬんだと独りごちるジミー。日曜の朝。今ではヘレナがアイロンをかけている。

彼とクリフは相変わらず朝刊を読んでは記事に毒づきいておまけに戯れ歌で盛り上がる。その頃アリソンは妊娠も順調で父母の下で静かな生活を送っている。マーケットではインド人への嫌がらせの中、監察官の取り締まりが目に余る。そしてクリフから自分には学もないし、もう少し別の仕事がしたいとジミーに相談が。息抜きにジミーはヘレナと映画館に入り西部劇を見るがあまり集中できない。話をしていると、客に注意され出て行く羽目に。彼とヘレナの長い散歩道。あなたは生きる時代を間違えたとヘレナ。マーケットへ戻る市場から追い出されたカプール。安過ぎる値段は死活問題だと同業者からの摘発だ。戦うんだ正義のためにとジミー。正義は望がその資格はないと言ってカプールは去っていく。クリフを駅まで見送るジミーとヘレナ。

道中の読み物をクリフに手渡すヘレナ。いよいよ2人だけの生活が始まる。露店を止めて人生出直すか、気晴らしに駅の待合室で一杯飲もうとすると、そこにやつれたアリソンが用があると言ってそそくさとバーを離れるジミー。残されたヘレナとアリソン。どうしてここにきたのかわからないとアリソン。彼女はお腹の子を流産していた。手元には片道切符だけ。部屋に1人戻った彼は孤独だ。トランペットも鳴りをひそめている。部屋に戻るなり荷造りするヘレナ。今度は君の番かといって外へ出るジミー。その足で駅に戻ると待合室にアリソンの姿は無い。発車する列車、その向こうの架け橋にたたずむアリソンの姿。想いを吐露する2人。去り行く列車の蒸気に霞む2人のシルエット…とだったり説明するとこんな感じで、戦後英国社会に生きる若者の中流階級への怒りを描く。

冒頭の光と影のコントラストの鮮やかな演出シーンと物語の設定が素晴らしく反抗的な人間像を一貫して描いた傑作中の傑作。冒頭のイングランド中部の街のジャズ・クラブで、熱狂的にダンスに興じる若い男女の足が写し出されてステージでタバコをくゆらせて額に汗を迸らせながら、トランペット吹くジミー・ポーターの表情がクローズ・アップされるのが印象的である。私はまだ見たことがないのだが、リチャードソンの初期の短編ドキュメンタリーで「ママは許してくれない」(56年カレル・ライスと共同監督している)を想起させるようだと映画評論家の高崎俊夫氏が言っていた事を思い出す。

今思えば1956年はトニー・リチャードソンにとって重要な年だったなと思う。そもそも、彼がカレル・ライスと共同監督した先ほども言った「ママは許してくれない」を含む短編映画3本を集めたフリー・シネマ第一回上映会が開かれたのもその年で、ロイヤル・コート・シアターで、彼の所属するイングリッシュ・ステージ・カンパニーの第4回公演が幕開け、リチャードソン演出によるジョン・オズボーン作「怒りをこめて振り返れ」が上映されたのもその年で、56年は彼によって、映画と演劇両面における革新運動の火蓋が切って落とされた年である。確かこれは映画評論家の吉田広明氏言っていた。フリー・シネマは、スタジオ制作の映画を批判、労働者階級の生活の生々しいリアリズムで切り取ろうとし、怒れる若者たちはキッチン・シンク・ドラマと呼ばれるやはり生々しいリアリズムで、戦後、様々な矛盾が露呈し始めた英国社会で窒息している若者の孤独、苛立ちを描こうとしていた。

この映画と文学における新たな傾向は、その後ブリティッシュ・ニュー・ウェーブとして合流することになり、その中でその両方に関わっていたトニー・リチャードソンは、2つを結ぶ蝶番のような役割を果たしていたのかもしれない。ところで、リチャードソンによる「怒りをこめて振り返れ」の56年の演出は、当該作の初演となる。ジョン・オズボーンの3作目の戯曲であり、オズボーン自身の(最初の)妻パメラ・レーンとの生活をモデルにしているとされている。オズボーンは父を敬愛し、母を憎んでいたと言うが、それはこの作品の中にも読み取れる(死に際の父に付き添った思い出を語るセリフ、主人公の母の劇中における完全な不在)。ロンドン中のエージェントに送ったが、すべて返されてきたこの作品を拾ったのが、上記のイングリッシュ・ステージ・カンパニーの代表者ジョージ・ディバインだったそうだ。

イングリッシュ・ステージ・カンパニーは、その処女公演でレパートリー方式(いくつかの作品を、日ごと、週ごとに変えて上映する。この場合週替わり)で行くことにして「怒りをこめて振り返れ」はその3番目の講演となったみたいだ。監督はこの作品で初めて本格的に商業的な演劇の演出をすることになる。それまでの2公演ともに出来はそう良いものとは言えなかったが、3作目として上映されたこの作品も、思われているほどに劇的な迎えられ方をしたわけではないと言われている。観客の反応は良かったものの、劇評はほとんど酷評、当時有力な批評家タイナンが激賞し、彼が本作を発見したかのごとく伝えられているが、公演前、宣伝のために批評家たちを昼食に招いた際、事前に作品を読んでいた評論家はこの作品をこき下ろしたらしい…。

この作品を見ていて画期的だなと思ったのがあって、まず主人公のジミーと言う人間があまりにもイライラを周囲の人々にぶつけているところだ。ただぶつけているのならまだ可愛い方で、彼らにどうやって怒りをぶつければさらに苛立ちを増幅させるだろうかと言う策略を込みでぶつけているため見ていてムカっ腹が立つのである。そういったセリフ回しで奥さんだったり友人だったりの顔を見ながら最も不快な事を探り当てている。しかしながら残念なことに、彼の苛立ちの原因は周囲の人々の行動や言葉ではなく、イギリス社会そのものにあるので、彼がどうあがこうと解決不能なのが画面から伝わる。だからどんなにイライラを募らせ、どんなに発散しようとしていても、それから解放される事は無いのだ。逆に、その苛立ち(フラストレーション)が頂点に達してしまう、いわゆるボルテージが上がりもう行くところまで行ってしまうのである。

だから他人に言った言葉が自分に跳ね返る今の言葉で言うとブーメラン(政治用語)を食うのである。もはや自虐ネタだ(笑)。昔「ルパン三世」でジゲンが"その言葉を鏡に向かっていいな"って言う台詞があったんだけど、まさしく鏡のような構造である。またこの作品は主人公たちの部屋を舞台としているが、その密室性、息苦しさは見ていて滅入る。この作品だけではなく英国映画と言うのは、若者を主人公にした社会の不条理を描いた暴力作品には多くの息苦しさが漂っていると思う。「スカム」なんか正にそれ…。リチャードソンは早くからこの戯曲の映画化を考えていたみたいだ。実際に映画化に踏み切ったのは58年のことで、映画化のためにオズボーンとともに制作会社ウッドフォールを立ち上げている。「怒りをこめて振り返れ」は、戦後の新しい文学動向(怒れる若者たち)を先導することになったのだろう。

その当時、先行する作家としては、ジョン・ウェイン、キングスリー・エイミスがいただけだったから、本作品が映画化される頃には、この動向における最大の文学者アラン・シリトーが登場しており、その存在感は確固たるものとなっていたっぽい。そう言う歴史的な流れでブリティッシュ・ニューウェーブの中核を形作ることになったんだろう。ところで、リチャードソンが野菜市場で働く若者たちを取材したドキュメンタリー映画の「日曜日以外は毎日」いと言う作品があるのだが、この映画に出てくる屋台のお菓子売りのシークエンスを見ると、その描写がそれに似ているような気がする。というかその部分だけドキュメンタリーぽさがある。それにしても主演を演じたリチャード・バートンがなんとも素晴らしいイギリス青年を演じている。今思えば彼の友人を演じていた俳優はイギリス界の代表的存在であるアラン・ベイツと言うところも面白い。そういや、奥さん役の女優メアリー・ユーアはオズボーンと親しくなり、その後、彼女と再婚している。

この映画にはインド人が出てくるのだが、そのインド人が偏見から色々と因縁をつけられ、屋台仲間から排除されて行くのだが、近年公開された「カセットテープ・ダイヤリーズ」と言う作品では、インド人ではなくパキスタン人がイギリスの社会で人種差別を受けながら生きていくと言う青春映画があったが、やはりこの当時からイギリス社会ではそういった偏見が強かったんだなと思った。しかしながら、排除する側もされる側も、労働者階級と言うやるせなさはこの映画を見ても感じるのが…何とも言えない気持ちになる。最後に、この作品には若き日のドナルド・プレザンスが監察官として圧倒的な社会を象徴する存在感を放ちながら出演しているのだが、ホラー映画ファンにも必見なのかもしれない(笑)。
Jeffrey

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