Nacht

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンのNachtのレビュー・感想・評価

5.0
海外のドラマのファンアカウントをみていたら「このドラマに、こんなに構図の良いシーンあったっけ???」と思って鑑賞し直すことがあった。
とても良い構図なのにドラマとなるとストーリーや字幕を追いすぎるが故に、純粋に映像が楽しめていなことがほとんどだと実感していた。映画に関しても同様だと思う。

今回の「ジャンヌ・ディエルマン」は構図が面白そうなので、ストーリーばかりでなく映像もしっかり観よう、と思って心してかかったが、セリフは全くと言って良いほど無く、映像をじっくり観る、というか、観させられる映画体験となった。

しかし本当にセリフが少ないので、主人公の住んでいるアパートの立地や建物入り口のタイル装飾、エレベーターの様子、居室の造りや内装、インテリア、ファッションや持ち物、に否応がなく目がいく。こうして映像だけを観ても驚くほどの情報量だと思った。
気に入った映画はほとんど家でも何度も見て反芻していたが、そうでもしないと見逃していることがたくさんある訳だ、とつくづく感じた。

さらに台詞がなくとも主人公の、家事の仕方、ルーティンの有無、曲げない習慣、料理に対する工夫、性に対する価値観…などから自然と気質や性格、美意識なども理解できる。

この映画のように、台詞がなくとも様々なことが観客に理解できるような映像の組み立て方をすることはかなりのテクニックだと思う。

デルフィーヌ・セイリグ演じるジャンヌ・ディエルマンは夫を亡くし思春期の子供と二人暮らしをする女性。
他と少し違うのは、午後のひととき、体を売って生活費を賄っていることだった。
いささか性に対して無関心な(人の外見や肉体交渉自体に興味がなく、それらについては「大したことではない」という価値観を持っていることが、息子との会話の中でされる)ジャンヌが故に、体を売ることにも大して抵抗がない。
よって、プロのお姉様方のように、客に「サービス」をするというよりは、美しい人形のように身を任せるのみ(三人目の来客の際に初めて交渉の様子が映るが非常に受動的なジャンヌが映し出される)。

なぜこの映画にデルフィーヌ・セイリグが?と思っていたが「神経質な冷感症的な主婦」というキャラクター(と私は感じました)に、恐ろしいほどぴったりなんだな、と感心した。

映像は腰高の固定カメラで壁に対して正対に構え、長回しをする…となると小津安二郎を思い出すが、同時に固定カメラ長回しというと、マルグリット・デュラスの映画も彷彿とさせられた。
両者の映画も今回の映画同様、部屋の中のインテリアや小道具、出演者に至るまで全てが等価値なキャストであってどれが欠けても成立しなくなる。

今回この映画のラストで起こるアクシデントについて「主婦のフラストレーション」とか「繰り返される日常の破綻」のようなレビューが見受けられるが、たかだかそんなありふれたオチのために、わざわざ3時間半の映画を作る訳ないのでは?と思った。(あまりにもそういう解釈が多いので監督がインタビューで答えているのかしら😅??)

三人目の客でジャンヌの表情は歪み、争い難い気持ち(快楽)を得てしまったように見える。冷感症が故に続けられてこれた仕事に支障を来たす(彼女のルーティンを侵す)ようなスイッチを押した男(異分子)に対する行動(排除)という、彼女にとっては「ごく当たり前の行動をしたまで」と私は感じたのだが…。

鏡越しの登場人物を捉えるため(カメラ自身が映らないためにも)カメラは正対から初めてずれ、ジャンヌも半ば感情的に無計画な行動に出て映画は幕を閉じる。

私にとっては納得のエンディングだった。
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