自分で定めたルーティンを淡々とこなす日々。規律の中にはゆとりがなく、息子との会話は表面をなでるのみ。そんな毎日が少しずつ少しずつ、崩れていく。それは料理の段取りが少し悪かったり、手紙を書くのに言葉がうまく出てこなかったり、ポットに入れていたコーヒーの味がおかしかったり。本当に小さなことだった。乱れは収束せず規律から離れていく様、その乱れを咀嚼し納得しようと虚空を見つめ留まる時間。これをこの尺で撮ろうとする決意…アケルマンの芯の太さを垣間見た。
「時間」の映画だと思った。特に、人を殺めたあとのあの時間。長いと思う、でも、実際にあれだけの時間が必要だった。
斉藤綾子さんのトークショー付きの回を観た。アケルマンが本作を「フェミニズムの映画」だと言っていたそう。以下メモ。
・家事を観察させられる。家事は「女性の家庭内労働」と言い換えることができる。
・夫に先立たれた妻は、家事と平行して収入を得なくてはならない。その手段が「売春」で、それすらもルーティン化されていた。
・ハサミで人を殺すモチーフ『気狂いピエロ』(あともうひとつ作品を挙げられていたけど忘れてしまった…)
【参考】改訂版 アケルマン試論 ----女性/映画/身体 斉藤綾子 - CMN! no.1 (Autumn 1996) http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO1/SUBJECT2/ACKER_S.HTM
広げるとベッドになるあのソファ、すごいね。