女にとって不吉なことは、すべて3日目に起こる。
ベルギー(もしくは知る由もないどこかの文化圏)には、そんな諺(ことわざ)が存在するのではないだろうか。そう思わせるような、静謐な力に満ちた作品。それは音もなく近づいてきて、音もなく崩し去っていく。
かつて「男性は本質を愛し、女性は習慣を愛する」と三島由紀夫(1925-1970年)は洞察したという。しかし男が口にする本質や習慣と、女が口にするそれらとでは、別のものを意味する可能性もある。そうした意味において、女と男がそれぞれに発する言葉は、どこか量子論的なところがあるようにも思えてくる。
Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles.
そう題されたこの作品の内奥にあるものは、ジャンヌ・ディエルマンという、ベルギーの首都ブリュッセルに暮らす、1人の女のささやかな事情ではあるものの、そのささやかさは徹底した叙事性を通して、やがて彼女1人のものではなくなっていく。
反復されるはずだったものが、少しずつ狂っていく。
じゃがいも料理を失敗する。ラジオの歌手が気に入らない。預かった赤ちゃんが泣きやまない。行きつけのカフェのいつもの席に先客がいる。コーヒーとミルクの味がおかしい。付け替えのボタンが見つからない。すべては、2日目の夜から3日目に起きる。
彼女は苛立つ。
ラストシーンに描かれる顛末(てんまつ)は、1つの顛末に過ぎないものの、あの鋏(はさみ)の感触は、おそらく女であれば皆が知っている。深く関わった女たちによって、男たちも知っている。もしも知らないなら、いつか必ずその刃先の向こうに。
主に屋内で(そして屋外でも)、fix(フィクス:固定)のみで撮られた映像。それらから立ち上げられるものは、外的な要因を排した内的なドラマであり、叙事的で粛々とした運動感覚の先に表れる叙情性という逆説。
ささやかな規模のアパートが、どこか迷宮のようにさえ感じられる。彼女の心さながらに。
小さな違和感としては、かつて息子が父親と話したという性的体験。父親と息子がそのような話をする訳もなく、話したとしても「死にたくなる」ことなどない。これは撮影当時20代だった女性の限界であると同時に、しかし紛れもなく女性の語りであることの、痛切さのようにも感じられる。
ときには誤りこそが、ある種の真相を明かすこともある。僕たちの書くレビューが、様々な誤解や未熟さを通してこそ、切実に何かを言外に語るように。
★ベルギー