主人公の男が笑顔を見せたのが、唯一、刑務所のなかでのワンショットという痛切さ。あるいは、アキ・カウリスマキにしては珍しく、彼の映画的な語法に反しながらも、自然な笑顔を差し込ませるしかなかったのかもしれない。
そして、冒頭に描かれる何の変哲もない3人の労働者による会話に、プーシキン、ゴーゴリ、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキーといった、ロシアの近代小説を拓いた作家たちの名前が出てくる(ついでに音楽家のチャイコフスキーも。とても気の利いた会話に嬉しくなる)。
アキ・カウリスマキのロシア文学への志向をよく表しており、そういえば『罪と罰』(ドストエフスキー)を処女作とした人だったことを思う。また、これで「敗者三部作」の3作を観終えたことになり、総体として感じた印象は、情操の深い場所に、やはりロシア文学を宿しているということだった。
また、この2点によって、本作の核心にあるものが、それなりに焦点を結ぶところがある。三部作のなかで、ストーリー的にもドラマとしても、最も簡潔(上映時間は78分で、他2作に比べて20分ほど短い)なのは、どこか短編のような感覚で撮ったからだろうか。
平均して5年ほどの間隔で撮られた『浮き雲』(1996年)『過去のない男』(2002年)『街のあかり』(2006年)は、それぞれに、撮られた時期のフィンランドの気分(それは世界的な気分ともつながっている)を反映しているのだろうと思う。
ソ連崩壊(1991年)の煽りを受けた経済不況のなか、夫婦の絆で乗り越えていく『浮き雲』(1996年)。同じ不況のなかで、夫婦関係を含めた過去との断絶を暴力的に通過しながらも、新しい絆を結んでいく『過去のない男』(2002年)。
しかし『街のあかり』(2006年)では、この絆(きずな)が結ばれない。1つには、周囲の人々の排他性がある。いっぽう主人公の男の倫理こそが、最も高い障壁(しょうへき)となっていることがある。
主人公はギャングの悪い女を愛している。悪い女は、ボスに言われて主人公を利用しているだけであり、人としても男としても主人公には何の感情も抱かない。その主人公に、思いを寄せる女がいる。
こうした三角関係が描かれるなか、主人公は自分に思いを寄せる女の心に気づいてないはずはなく、寂しさを埋め合わせるために女を利用しないという、倫理に生きていることがよく伝わってくる(実際、彼は犬を憐れみ、腕力で勝てるはずもない相手に立ち向かってもいる)。
この倫理による断絶は、「まともな人ほどボッチになる」という今現在の日本の状況と酷似しており、かつ世界的な気分でもあることが、2006年のフィンランド映画に端的に描かれている。
対照的に造形されているのがギャングのボスであり、悪い男は、その倫理こそを利用する。おそらくは職場の人間も、その倫理こそを鬱陶しく思い、仲間はずれにしていた。
操(みさお)を曲げて、少しは周囲とうまくやればいいのにと思うかもしれない。しかし、事はそう簡単にいかないことは、たとえばハンナ・アーレント(1906 - 1975年)によって洞察されている。
彼女の言う「悪の凡庸さ」とは、少しは周囲とうまくやろうとした人々のうち、1人はアドルフ・アイヒマン(1906 - 1962年)というユダヤ人を大量虐殺した(ホロコースト)実行犯を、他方では、それに加担したユダヤ人たちのことを指している。彼らは、口々にこう言う。周囲に合わせた(上から命令された)だけであると。
だからこそ最後に、アキ・カウリスマキは「ここでは死なない」と主人公の男に言わせる。彼は、この男を死なせるわけにはいかなかった。
★フィンランド