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黒薔薇昇天のbluetokyoのレビュー・感想・評価

黒薔薇昇天(1975年製作の映画)
3.5
岸田森演ずるブルーフィルム製作の十三監督が女優のメイ子の妊娠によって、ブルーフィルムの作成が困難になったところから話は始まる。
ところで、十三監督の作るブルーフィルムは、芸術なのだろうか。作中では、繰り返し、十三監督が「芸術を作っている」と連呼しているので、たぶん、そうだろうと思ってしまう。でも、鑑賞に耐えられるかどうかは別にして、(おそらく)まったく、そのシーンは出てこない。幾代を自室に連れ込んだときも見せたのはスウェーデンのブルーフィルムである。
リアルに考えてもブルーフィルムの制作サイドが芸術を前面に出すことは到底ないだろう。出すとすればカネである。たとえば、この映画なら、幾代に対して、出演してくれたら、いくら払うと切り出すはずだ。この映画においても、女優のメイ子、男優、カメラマン、照明は、生活のためにブルーフィルムを作っているのに違いない。とすると、実は、十三監督も生活のためにブルーフィルムを作っているのである。だから、メイ子が妊娠して出演できないとなると、すぐに代わりを探さなければいけないわけだ。
だが、唯一違う人物がいる。谷ナオミ演じる幾代である。カネ持ちの家の婦人なので、とくにブルーフィルムに関わらなくてもいいのだ。十三監督の騙しや、あるいは、一番大きいのは首つり自殺したところを助けられたところが大きいのか、十三監督の自室に来てしまい、ブルーフィルムの女優を引き受けてしまう。
そういうわけで、最初のシーンに戻って仕切り直し。さっそく、ブルーフィルムの撮影。と、思ったら、女優のメイ子+十三監督の嫉妬によって、撮影現場がぶち壊れ、映画は終わる。
下らない「落ち」に見える終わりかただけど、実は違うように思う。つまり、カネ持ちに負けたのだ。カネのためではなく、自分のために、セックスする幾代の本物さに、カネのためにしか動かなったブルーフィルム製作チームは敗れ去ったのである。そういう「落ち」なのだ。
翻って、神代監督の日活ポルノ監督としての立ち位置である。ブルーフィルムを製作している、それを作品にすることで、その芸術性を自ら否定してみせるのだ。まあ、そういう「落ち」なのである。
もう一度問うてみる。十三監督は芸術を作っているのだろうか。そうではなく、芸術と言いながら作っているその姿そのものが、芸術的なのだ。一種のパフォーマンスアートのようなものだろう。
岸田森の熱演は素晴らしいです。普通の映画としても興味深いです。
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