まぬままおま

サタンタンゴのまぬままおまのレビュー・感想・評価

サタンタンゴ(1994年製作の映画)
5.0
驚愕の438分。あまりにも強烈でインターミッションで日をまたいだ。それでもカット1の衝撃とまさかの3時間30分後に劇的な展開が待っているなんて、そんな映画体験は他の作品ではできない。

カット1は8分弱の長回しで牛のアクションを捉えている。けれど定点カメラで撮っているわけではなく、牛が移動するのに伴ってパンしたりトラッキングをする。人間の意志は存在しないかのように牛は動くし、その動きに合わせたカメラはどこまで想定して動き回っているか全く分からない。なんで家を挟んだトラッキングで牛を追えるの?レールは何メートル敷いているの?疑問が湧き起こる。このように映画でこんなにも鮮やかに動物を撮ることができるし、1カットで撮れてしまうことに衝撃を受ける。

しかもそのように動物を撮ることで、人間と動物を等値に置く。そのことで人間性とは何かが逆説的に浮かび上がってくる。

牛たちは村の人々のメタファーだ。寂れた村のコミュニティに群がり、困窮さに飼い慣らされて、イリミアーシュという「救世主」が現れたらついて行ってしまう。彼らの人生の楽しみと言えば酒を飲み、タンゴを踊ることだけだ。それは真っ当な村での生き方であり、彼らにとってみれば極めて合理的な生だ。しかし私には哀れに思えてしまう。酒飲んだり踊ったりしかできないなんて、なんて惨めな生き方なんだと。だが、私たちは他者と生きるために、形はどうであれ「村」で生きなければならない。ではどう生きる?

本作は全くもって回答を与えない。イリミアーシュは信用ならない語り手であるし、村も理想郷ではない。むしろ人間性の残酷さを明るみにする。

それがエスティーケの死についての描写である。

彼女はかわいそうな子どもであり、末っ子の彼女は端的に被虐児である。母から必要なケアをされることはないし、むしろ母の都合で家に追い出される。兄とは親しくするが、その兄も彼女を対等な存在として扱うことはない。むしろ裏切りが可能な弱い存在としてしかみられない。
そんな彼女が猫と出会う。このことは孤独な彼女に動物が接近し、親しさがもたらされるかのように思える。しかし事態は逆だ。猫は彼女の思うようには接してくれないし遊んでもくれない。むしろ無関心だ。そんな態度をみて、彼女は猫と無理強いに戯れる、ミルクを与える、網に閉じ込める。虐待だ。彼女がされていた虐待だ。そして虐待の果てで猫は衰弱し、死ぬ。なんて残酷なんだろう。そして人間の愚かさが露呈している。つまり弱き存在は、さらに弱い存在をみつけたら、助け合うのではなく、いじめる。あまりにも残酷な人間性の発見である。
だからこそ私たちは他者と村で生きるためには、その人間性を罪として罰しなければならない。そして動物化しなければならない。本作でエスティーケが天から罰せられ、死ぬことや大人のろくでもなさとはそういうことなんだと思う。

でもやはり私はそのようには生きたくないのだ。11分弱もタンゴを踊り、悪魔になって地獄の時間を悦びにする人生を。

それなら雨の中を歩き続けなくてはいけない。その道は荒涼としているかもしれない。晴れることもなければ、天国に辿り着くこともないかもしれない。同伴者も先導者も信用ならないかもしれない。けれど自分の足で歩き続けるしかない。それだけが別の仕方の人間性に到達する運動だ。すなわちそれは救済の人間性だ。