竜泉寺成田

アバウト・タイム 愛おしい時間についての竜泉寺成田のネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます

タイムトラベルものだが、やはり海外作品らしく能力に明確な制約がないのが気になった。一応、能力を使える範囲というのは次第に限られてはいくのだが、どうにも「誰々に会えなくなる」という心情的な問題に起因するものが多く、また最後の一展開によりそれすらもひっくり返され、思わず「いや今までの葛藤、何だったん?」となってしまうような節がある。そして、その何でもアリすぎる設定が、どうにも作品のテーマとうまく噛み合ってくれない気がした。
というのも、本作品の主題は「不可逆的な何気ない日常にこそ素晴らしさが潜んでいる(だからかけがえのない一瞬一瞬を大事に生きよう)」という王道の内容だと思うのだが、それを伝えるにはどうにも主人公および父の能力がチートすぎる気がしてしまうのである。
現実問題、時というものは当然ながら絶対に巻き戻せないのであり、だからこそ”今“が輝きを見せるのであって、いつ何時もほとんど無制限に過去をやり直せるような人間たち、つまり“やり直せる可能性を担保した余裕のある人たち”の生活から何気ない日々の大切さを教えられても、正直な話「そりゃあんたたちは最悪やり直せばいいですもんねえ!」としかならない。
あと、過去に戻って後世に残すための研究をしまくった父に比べ、恋愛をはじめとしてほとんど自分の身の回りの私利私欲のために能力を活用し、その優れた能力を社会のために使おうなど一ミリも考えず、挙げ句の果てには悦に入って自らのかけがえのない人生のために、能力を封印するという選択をしたティムは、なかなかにエゴイストでなかろうか。
とはいえ、こうしたメインのドラマの周縁にて、さまざまな問いが浮かび上がるような描き方はよかったと思う。例えば、恋の偶然性についての問い。メアリーはティムと出会っていなければ、別の男と出会っていた。その男はあたかも軽薄そうに描かれていたが、それはあくまでティムに寄り添って私たち観客が物語を見ているからで、本当のところは分からない。彼と添い遂げる人生はもしかすると、ティムとのそれよりも遥かに華やかで刺激的な世界にメアリーを連れて行ったかもしれない(そしてそれこそが彼女にとって最上の幸福になり得たかもしれない)。つまるところ私たち観客が目にした物語というものは非人間的な能力で運命をコントロールした産物なのであり、しかもそれはティムの欲望を満たすという目的に沿ったシナリオに過ぎないのである。
私たちは本来的に、時代、環境、能力、そのほかさまざまの偶然極まりない諸条件によって生を規定されているのであり、極論を言えば、地球の裏側で眠りについているとある街のとある人物が、世界で最も相性が良い人物である可能性も否めない。しかしながら、恋愛とは与えられた物理的制限の範疇で行う以外ほかなく、私たちはそうした偶然性をともに受け入れつつ、「運命」を手繰り寄せ合っているのだ。
けれども、本作品においてメアリーの側に偶然性はない。そうしたことを考慮しながら一度視点をティムからメアリーに移したとき、「メアリーにとってティムは本当に運命の人だったのか」という問いがまざまざと浮かび上がってくることだろう。
また、本作品では数々のマイノリティーへのまなざしが含まれているようにも思う。作品内で中心的な役割を果たすタイムトラベルという便利すぎる超能力は、男性にしか引き継がれない。ティムはそもそもがタイムトラベルをする必要なく弁護士になれるほど優秀な素質を持っているにもかかわらず、さらに超能力まで手にいれ人生をさらに好転させていくが、キットカットは女性であるという理由だけでその術が用意されていない。こうした女性の選択権のなさを感じさせる描写は、メアリーの偶然性の話にも通ずるだろう。
この他にも、シャーロットと再開した際の「レズ(作中では『ゲイ』と表現)」に関する会話はティムの差別意識の無自覚な発露を示唆しているし、社会にうまく適応できないキットカットや物事を覚えられない伯父の描写には、発達障害や認知症などの問題意識を感じることができる(もしかすると、ジェイやローリー、ハリーなどにもその傾向が見られるかもしれない)。
ということで、能力の設定やプロットの流れにはそれなりに疑問点があったものの、プロットには現れていない細部に配慮が込められていたという点では評価できるそんな作品だった。
竜泉寺成田

竜泉寺成田