レインウォッチャー

ファインディング・ドリーのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ファインディング・ドリー(2016年製作の映画)
4.0
『ファインディング・ニモ』の続編は、何でもすぐに忘れちゃうナンヨウハギのドリーが主人公。親子(育児)映画としてあれほど綺麗に閉じた『~ニモ』から、わざわざ13年も経って作られるに至ったのはなぜか?に、今作のキモがありそう。
思うに、今作は表面上ドリーが(また)親を探す話…に見えつつ、もっと水深が深いところにタッチしている別の物語なのだろう。

冒頭から明らかになるドリーの出自は正直かなりヘヴィで、えっじゃあ彼女はずっとずーっと「探し続けてた」ってこと…?という気づきに胸の奥がぎゅっとなる。
前作では、堅物マーリンと漫才ペアのような掛け合いでコメディのエンジンにもなっていたドリー。その所謂「アホの子」ポジションをカワイイと笑っていたのがちょっと気まずくなるし、作り手側としても今作には自己批判的な意味合いを込めたのかもしれない。

旅の途中でドリーが出会う新キャラたちは、足を一本失ったタコ(sectopus)や視力の低いジンベエザメなど、それぞれが明らかに何かしらのハンディキャップを想起させるもの。
観客は、ドリーたちが力を合わせて道を切り開く冒険(※1)にライドすることで、少しの間だけ彼らの世界を追体験することができる。彼らが経験するクエストの苦労や困難さは、現実社会におけるマイノリティの生きづらさへと如何様にも変換し得るだろう。

その中で気付かされるのは、生きていれば誰もが何かを「探し続けている」という真理である。
ドリーの旅は、つまり「自分とは何者なのか?」「どこからきて、どこへ行くのか?」というルーツに立ち戻る終わりのない問い。わかった!と思えばまた崩されて、目の前には暗く広い海が広がっている…わたしたちは一生それを繰り返して生きているともいえる。

外から気づかれやすい、あるいは医者が名前をつけたようなハンディがあろうとなかろうと、その点において《ドリーたち》と《わたしたち》の差異はなくなる。劇中で度々繰り返される" ドリーならどうする? "という問い、その想像力さえあれば。

くたびれて、心がささくれて、自分自身の目的すら忘れて / 見失ってしまったとき、ドリーの姿が勇気をくれるだろう。ひとり放り出された彼女が見せた、「好きなものの方へ進む」というチョイス。(※2)
どうせ探すなら、何か(誰か)の少しでも良い面・明るい方を…それは理想論なのかもしれないけれど、このシーンの完璧な美しさだけは変えようのないUnforgettableな真実としてずっと心に残り続ける。

もし隣のドリーが忘れていても、そのときはわたしやあなたがそれを思い出させてあげれば良い。もちろん簡単ではなく努力が必要だけれど、だからこそ今作が生まれたのだと思う。そのアクションは、いつか巡り巡って自分にも帰ってくるから…と信じていたい。

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・同時上映は『シガニー・ウィーバーVS八代亜紀』。(ってききました。)

・音楽トーマス・ニューマンすばらしい。PIXAR最新作『マイ・エレメント』も見事だったけれど、今作の深い心の海を思わせるどこか瞑想的な揺らめき、時折使われるエキゾチックな音階、ベストワークの香りが。

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※1:お馴染みの移動・脱出ミッションが前作からスケールアップして描かれるも、ちょっとやりすぎな感も。このシリーズは『トイ・ストーリー』と同様、「人間には知られざる小さきものたちの世界」を粋に描くものだと思うのだけれど、今作は流石に規模が大きすぎて、気づかないのが難しい事件レベル。

※2:今作で、ドリーの両親が警戒し、小さなドリーがはぐれるきっかけにもなる《Undertow》(字幕では「激流」)。このワードがやはり印象的な要素として使われる作品がある。ジョン・アーヴィングの小説『ガープの世界』だ(映画化もされている)。
この作品の中で、《Undertow》は不幸の象徴でもありつつ主人公たちの人生を突き動かしていく「運命」そのものの善悪を越えた力のように機能する。『~ドリー』が『ガープの世界』を参照していたかはわからないけれど、なんだか符号的な一致を感じてしまうところ。