このレビューはネタバレを含みます
奪うほど失う
私は誰なのか
I'm all of them.
・アイデンティティの多重性、矛盾を抱え込む強さを持つ。
私は誰なのか。パンダの子供、鳥の子供、弟子、師匠、友達...その全てが私であると抱え込む強さを感じた。
・ヴィランは何の象徴か
今見たばっかだけどもう名前覚えてない。彼は後世に自分の名前が残っていないことをずっと気にしていた。また、他者の気を吸収することでようやく魂の世界(自分の中の世界)から肉体の世界(みんながいる世界)へ出てくることが出来る。このような他者からの承認を得てやっとアイデンティティに自信を持ち人前に出ることが出来る姿勢は現代人にもよく見られる。そんな彼は"あなたにとって私は誰か"ということを問い続ける。そしてその価値観で他者に接することで他者の気を吸収し、他者を支配しアイデンティティを無効化させる。また、翡翠にされたマスターたちは資本主義における労働者のようにの目的のためにアイデンティティを無視されてしまう存在に見える。それは親友であるウーグウェイ導師に裏切られたという、自己認識と他者から見た自己がズレていた経験とそれによるコンプレックスによるものなのではないか。ヴィランは他者による評価や見られ方を気にしたり、一般的に良いとされる存在を追い求める現代人の象徴的キャラクターなのではないか。
・ヴィランに対するポーは何の象徴か
そんなヴィランに対してポーは"私は誰か"という問いの答えを自分の内に、そして1対1の関係性の中に見出そうとする。その答えが1対1の関係性での私の集合態としての私つまり、"私はそれら全てである"ということなのではないか。それを理解したポーはパンダ村の住人たちにアイデンティティを見出すというヴィランとは対照的に振る舞う。結果ポーはパンダたちや師匠、仲間に各々求められ肉体の世界(みんながいる世界)に引き戻される。しかし、ヴィランは魂の世界(自分の中の世界)に送り返される。
・肉体の世界を生としているのが良いのでは?
単に心身二元論的な世界観であるだけかもしれないが、肉体の世界を生とする考え方がいいと思った。近代以降、肉体は過小評価されていると思う。ウディ・アレンのマンハッタンでもウディ・アレン演じるアイザックが「脳は最も過大評価されている器官だ。」と言っていた。気功というぱっと見は精神的に思えるテーマでもカンフーという身体性の延長に気功がある世界観が自然だと思ったししっくりきた。パソコンのコマンドのようにこのボタンを押せば効果が発揮されるのでは無く、同じ動作でも急にパンダが気功を使えるようになったように全体として効果が発揮されるのがいいと思った。世界は集合態でその関わりの中に現象が起こる。そんな感じがした。
3作目だからあんまり期待してなかったけど、テーマの分かりやすさと奥行き、オーバーラップしたり画の関連するシーンのつながり、シリアスとコメディの緩急、前作とのつながり、気功という新しい要素、90分かつか不足ない長さでとても面白かった。ウーグウェイ導師という絶対的な正解とポーの成長、ヴィランがヴィランになった経緯やキャラクターの明確な解像度の区別という構成によってテーマがとても分かりやすくなっていると思う。欧米の人が描くアジア映画だけどそこまで違和感を感じなかった。アジア的な動物というデフォルメ度が丁度いいのかもしれない。