皿と箸

ニンフォマニアック Vol.1の皿と箸のレビュー・感想・評価

ニンフォマニアック Vol.1(2013年製作の映画)
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まだこの「物語」は終わってないのでなんともいえず・・・。

二部構成となったのは今のところ単なるバジェット的な問題なんだろうとは思うが、5+3で区切られているのが何とも意味深。

これで、vol2を観ないといけなくなった訳なので気になったところをメモ書き。

・ジョーは「この物語を理解できっこ無い」と言い「理解する気があるなら話す」と言ったので老人セリグマンは必死に自分のもつ文化資本の中から(自身の経験ではなく)ひも付けして「理解」を示そうとする。と同時にジョーが話す理解できっこ無いと思っている経験は全て法則や定理で説明がついてしまう事なんだという「皮肉」になっているともとれる。(フィボナッチ数列など。)
このセリグマンが最初に部屋の中で何をしていたのかが気になるし最後にどんでん返しの展開を起こすとしたらこの人しかいない。

・ジョーは自分の事を「悪い存在」だと言う。セリグマンは主人公を一切否定はしていない。H夫人のシークエンスで自分の欲望が他人の幸せを壊す事に関して「何も感じなかった」と言っていたので、vol2では自身の事を「悪い存在」だと自認するまでに至る原因が明かされると思われる。

・H夫人のシークエンスでは初めてニンフォマニアになる要素として「孤独を感じた」と言った。


・せん妄の章だけ語り出しがジョーではなく、さらに映像がモノクロになっている。ここまでにトネリコの樹のエピソードが複数回語られる。(トネリコの樹が創られたとき他の木々達は嫉妬した、しかし冬になってトネリコの樹に黒い実がつくと他の木々達は「見てみろ」と笑った)➡️このエピソードは元ネタにまつわるかなり重要な部分と思われる。
このトネリコの樹は北欧神話におけるユグドラシル(世界樹)の事。キリスト教化する前の概念の話。

・ジョーが惹かれているジェロームには男性としての特別の魅力は描かれてはいない。ジョーはジェロームをパーソナリティーではなく「物」として欲望している。

・主題歌がラムシュタインというのはバンドの実像とジョーの半生が重なりとても良い効果を生み出している。

全編を通してセックスというのは男女関係の終着地点などでは決して無い、ということとそこにロマンティシズムを期待する価値観をフラットに描く事で、日常行為として当たり前に扱われる事であってそこに「思想」が付随しがちになっている事についてのアンチテーゼがある。

女(エロス)という記号で見られる事に嫌悪感を示したり男とか女とかくだらない。その奥のパーソナリティを見れないの?という論調ってあるとおもうけど、個人的にはそうやって女や男という記号から逃れようと意識的になればなるほど逆説的にそれは近づいてくるし本当にそこから逃れるには「死」に近づくしかない。最も死んだとしても「女」であることから解放される訳ではない。その試みはアーティストのシンディ・シャーマンも既にしている。
vol2ではセリグマンが「君の経験を男性に置き換えたらそれは凡庸だ」的なことを言いジョーは「陳腐な表現ね」と言う下りがあるらしい。ことからもvol2ではより「性差」に対しての言及がなされるのかなと思う。こういった題材を扱う以上そこへの言及は免れないと思うので、今作の立ち位置も気になるところ。

今のところジョーは孤独感を起因としたセックス中毒者という解釈しかできないはずで、それを肯定的にも否定的にも描かず「笑い」というものの効果で一見タブー視されるテーマを一般感覚まで引き下げることでこの一人の女性の物語に没入することを可能にしている。
色情症は拒食症とかと同列の「病気」なのでそこに主体的にセックスを捉える女としてのメンタリティや性差にまつわる固定観念論を共感して自意識を拡大するのは全く違うかなと。
そういう結論に帰結するんだとしたら間違いなくこの映画は駄作です。
あくまでもこれは「物語」なのだから。
皿と箸

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