レインウォッチャー

カラスの飼育のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

カラスの飼育(1975年製作の映画)
4.0
抜けない棘を分けてあげる。

母に続き、父まで急に亡くした幼い三姉妹。中でも、次女のアナは感受性が強く繊細。叔母が面倒を見ようとするが、高圧的な態度ゆえ摩擦が生まれる。母との思い出を度々思い返すアナ。

物語には、アナにとって大きくみっつの時制が存在する。①大人になったアナ、②母親を亡くした後の少女時代のアナ、そして③母親が存命だった頃のアナだ。
映画は①大人のアナが過去を回想するような体で進んでいくのだけれど、②と③の記憶が時に境目なく混じり合う。同じ家の中で、母親と過ごしていた直後に階段を登ると叔母が現れて…といったように混濁が起きている。
また、実際に少女アナが「見た」光景と、想像で補われた光景もどうやら同居しているようだ。

これらの癒着が何かしらの映像効果等の補助なしにナチュラルに起こり、観る側に複雑な印象を与えつつ緊張感のようなものまで生むのだけれど、同時にこれは「記憶」というものを正しくとらえていると思う。

わたしたちが何か記憶を思い返すとき、時系列通りに行儀良く整理されて現れることは稀だろう。多くの場合、特に場所に紐づいた記憶などは様々な時制や人々が断片的に立ち現れて、時には取り違いが起こったりもしながら印象が形を成していく。それらのピースが組み合わさって、思い出す度に少しずつ違う大きなひとつの絵になる。

この作品は、アナ=アナ・トレントのあまりに真っ直ぐで、夜の湖のような底知れぬ瞳を通して、実直に心の風景を再現しようとしているのではないだろうか。
「子供の頃が一番幸せだったとは思わない」と語る、現代のアナ。
子供時代ではうまく理解できなかった出来事や感情が、時を経て線になって、名前がついていく。この工程を通して、彼女は少し癒しを得たのかもしれない。

アナの少女時代を支配しているのはやはり「死」への未知や恐れだけれど、同時に女性の諦念のようなものが浮かび上がってくるようでもある。

タイトルの「カラスの飼育」とはスペインの諺で、「カラスを育てると目をつつかれる」、つまり直接的には姉妹の扱い(特にアナ)に手を焼く叔母の立場と重なる。
同時に、何度か冷蔵庫を開けるシーンで必ず寄られる鳥の足(いわゆるモミジってやつでしょうか)にも結びついて連想を強める。

これは最後まで何か明らかに語られはしないのだけれど、やはり「足を切られる」、つまり自由を奪われるということかと想像してしまう。

アナの周囲は女性で完結しており、その誰もが求められる女性性(その象徴としての「家」)に縛られているように見える。ピアニストの道より家庭を選んだ末に孤独に死んだ母、古い写真を眺めているばかりいる祖母、下世話なゴシップに目が無い女中、アナが目撃する不実な情事。
そして、少女もまたいつか成長して、母のように女になるという厳然たる事実(母と大人アナを同じ女優が演じているのもその目配せに思えたりする)。

あの鳥の足は、女たちの「心の死」だったのかもしれない。
今作は少女の日記を繰るような小品でありつつ、ところどころにそんな小さな棘を隠しもっている。

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今作はビクトル・エリセ監督作『ミツバチのささやき』の3年後。
アナ・トレントはやはり同じ「アナ」という名前で、死とは何か?について考えるような役を演じている。これは偶然なのか、あるいは当時の彼女が避け難く纏っていたものなのか。