くるみ

ジゴロ・イン・ニューヨークのくるみのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

2014/07/26
途中までは「宗教の戒律が、過度な抑圧どころか女性差別になってる例って珍しくないからなあ」などと、ジゴロたちによる女性性の肯定に着目していたのですが、エンディングの辺りで「あれ?これ、実は逆なんじゃない?」と気付きました。

つまり、「男娼という商売で真に利益を得ているのは誰か?」です。
皮膚科医もその友人も、フィオラヴァンテのベッドマナーに大喜びです。自信たっぷりには振る舞わず、相手のオーダーに従って細やかに気遣う。ウケそうだなあと思いました。マレーの指摘通り、あの年齢になると男は顔じゃなくなるのも予想できる。トム・クルーズは、その辺の花屋にはいないから、トム・クルーズなんですし。
でも、フィオラヴァンテがマレーの誘いに乗ったのは、金のためです。封筒を開けないなどのマナーはあるけど、無償で奉仕する気はさらさらない。男じゃない私が男の性に言及するのは口幅ったいのですが、ぶっちゃけ、いい女とのセックスは楽しいはず。

相方のマレーともなると、さらに楽しんでいるのは明白です。彼は女性を、金と身体で選別してる。年齢さえ許せば、自分も仲間に加わりたいと思ってて、客とフィオラヴァンテの交接については大いに妄想してるでしょう。敬虔なユダヤ教徒を引き込んだのも、彼女の寂しさを埋めるためじゃなく、新たなるチャレンジに見えました。ラビ審議会で弁護士が言ったとおり、何事も「やっちゃいけないから楽しい」んです。

要するにですね、ジゴロは女性たちの寂しさを埋めている、解放してるんだ、という話の流れは見せかけです。実際の二人は、男娼って商売を楽しんでいる。でも、むき出しの男性性や金への執着をオモテに出すと醜くなる。だから、花だったり食べものだったりオシャレな音楽で取り繕っている。ユダヤ教の戒律だって、ジゴロを肯定するための舞台装置です。

しかも、その事実に二人とも自覚的です。片鱗だって、ちらちらと見せている。
「最高級のウォッカは酒臭くならない」「土をいじるのは汚れ仕事」「毛じらみを持っている子供には素手で触りたくない」と、マレーは言います。彼は、男娼稼業のきれいなところだけを掬い取りたいと思っている。人より教養がある自分たちの商売には、下層の女なんか必要ない。フィオラヴァンテも共犯者ですので、マレーの考えを否定しない。名前なんか自分で考えちゃってる。出典がダンテかよ!すごいね!
男娼稼業において、あけすけなのがマレー、奥ゆかしいのがフィオラヴァンテ、と分担されてるのが、また憎かった。

というわけで、「男娼という商売で真に利益を得ているのは誰か?」の答えは、男二人です。女たちは男たちの道具であって、都合の良い存在に成り下がってるときさえあります。特に、3Pができなくなっても怒らないところがねえ。高収入で顔も身体も良くてエロくてレズっ気があって、しかも物わかりの良い女性!出た!男のドリームの具現化だー!
ですので、女たる私は、この非対称性に怒るべきなのかもしれませんが、あんまりそういう気分にはなれなかった。

えーとですね、現実ではない世界、フィクションでのみ許される文脈ってあると思うんですよ。たとえば私は、銃社会なんか一生ゴメンだと思ってますが、映画のなかで銃を構えてると、よし!撃て!とワクワクする。その瞬間だけ、銃をぶっぱなす人間の気持ちに同化してるんです。
だから、本作でも、女を食い物にする男たちの感覚に一体化してた。
いやもう、現実で男になりたい瞬間なんか、暗い夜道を一人で歩いてるときくらいの人間が言うのも何なんですが、私が男だったら、いい女とのセックスで金がもらえるなんて大喜びです。エロゲのようなハーレム展開、あこがれます。

従って、本作に出てくる男の卑しさについても、嫌いじゃないな!という結論になりました。
演出がおしゃれできれいだったことも、理由です。フィオラヴァンテと未亡人が魚を解体するシーンなんか、たいへん上品なエロさだった。二人に実際の肉体関係があったかどうかは気になるところですが、やっぱりこれはやっちゃってると見ていいんじゃないかな。面と向かって食事を取るのは、セックスの隠喩な場合が多いし。

つまり、私も気持ちよく騙されてる側の立場なんです。シチュエーションのすべてが男性性の肯定にあるとわかっていても、まあいいやと思わせるこの映画。見事なジゴロの具現化でした。
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