映画漬廃人伊波興一

赤い部屋の恋人の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

赤い部屋の恋人(2001年製作の映画)
3.2
官能や倒錯が視界から一掃された時に気づいた才能の連鎖

ウェイ・ワン
「赤い部屋の恋人」

数ある選択肢の中から、フローレンス(モリー・パーカー)は何故、敢えてストリッパーを選んだのか?
性的サービスの提供が目的ならストリッパーでなくても良い。
踊りや舞いが好きなら尚更ストリッパーでなくても良い。

だからこれはあくまで才能の問題だと思う。

言い換えれば彼女がストリッパーを選んだのではなく、才能が彼女をストリッパーに選んだのです。

ある一線を超えて犯罪に手を染めてしまう者、ある一線を超えて夢や野望に賭けてしまう者、横に並ぶだけでも不相応なほどの異性に対して、ある一線を超えて叶わぬ愛をぶつけてしまう者など、全てに於いて、ある一線を超えてしまうという事は、幸か不幸かはさておき、才能の開示という瞬間に他なりません。

才能ゆえにそうなってしまったのならストリッパーの持つ社会性や職業倫理、使命感などそれらを巡る劇的な誇張が介入する余地などある筈もない。

彼女はただストリッパーであるしかなかった。
才能とはそういうものです。

ウェイ・ワンはそんなモーリー・パーカーの瞳にキャメラを向けながら、もう一つの才能を開示させます。
ピーター・サースガード演じる投資家の男は、その気になればいくらでも風俗産業に身を置く女たちを、意のままに操れる筈なのに敢えて主従関係が希薄になりそうな条件を提示してくるモーリー・パーカーに惹かれていきます。

彼を惹きつけるのは、モーリー・パーカーの振る舞いが醸す官能でも、倒錯によるものでもなく、あくまで才能です。

それはアキ・カウリスマキの「過去のない男」で記憶を失う才能を持ったマルック・ペルトラの世話を焼くカティ・オウティネンと全く同じ事なのです。

官能や倒錯に浸りたいのではなく、開かれた才能と戯れたい。
虜になってしまったのは、その事実を即座に理解してしまったことによります。
これもまた才能としか言いようがなく、才能は才能を呼ぶ、という連鎖によって、官能劇でありながら何故、観ている私たちの男性機能が健全に発動しないのか、という通俗的な疑問を視界から一掃していくのです。