このレビューはネタバレを含みます
振り払っても取れない蜘蛛の巣のようないくつもの解釈。
同僚から薦められた映画の中に自分と瓜二つの俳優を見つけた大学講師のアダムは、その俳優に興味を持ち、居場所を突き止め、やがて対峙する。そんな奇妙な物語にグイグイと引き込まれた。
闇に浮かぶ肌、不穏な音楽、セピア調の日常、高層建築群、そして幾度となく現れる蜘蛛。邦題にかなり引っ張られながら没入した自分は、アンソニーという存在をクローン人間かドッペルゲンガーとして見ていた。どちらが複製で、どちらがオリジナルか?
しかし、会った事もないアンソニーをまるで知っているかのように言う母親の台詞に違和感を覚える。モヤモヤしたまま事の成り行きを見守った結果、ラストで唖然とした。そして笑った。難解ゆえの笑いである。
観賞後、解説を読んでもいまいちスッキリしない。クローン、ドッペルゲンガー、抑圧と解放の精神世界、二重人格の妄想、そのどれもが成立してしまうが、どれが正解か分からない。原題である「Enemy」で考察しても、全ての解釈に「敵」が当てはまる。
アダムとアンソニーが一緒にいる所を誰も見ていないので、「瓜二つ」ではなく「もう一人の自分」という解釈がしっくりくる。蜘蛛は、母親や妻による抑圧の象徴なのだろう。そうなると性格が正反対のアンソニーは性欲の象徴に思える。本能を抑える理性、理性を壊す本能、どちらも敵は自分自身という解釈が一番腑に落ちる。
事故死はもう一人の自分を消去、秘密の会員制クラブは浮気願望、ラストは浮気願望を知った妻の姿、そう解釈してしまおう、面倒臭いから笑。
「重要なことは二度起きる」
アダムの破られた写真と、アンソニーの写真立ての写真が同じというのは、どういう事だろう。原因と結果、過去と未来、そしてそれは繰り返されるって事なのか?うーん、難しい。