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SADA 戯作・阿部定の生涯のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

SADA 戯作・阿部定の生涯(1998年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

 いくつも展開されていく大林節が楽しい映画だった。一貫した持続する緊張感は無く、シーンごとの散漫な撮り方がやや集中力を欠いてしまうと共に、演出のドラマ性と大林特有の遊び感覚の演出が相入れなかったのかもしれない。またどうしても「愛のコリーダ」という”過激”の代名詞である阿部定という題材によって、観客が多少エログロナンセンスを期待してしまい、実際はそんなことない大林節炸裂の受容に戸惑った節はある。

 とはいえ、オープニングから演出は冴えまくりだった。暗闇の画面にチンドン屋か何者かが一輪車で画面を横切る。その時、カメラが地面を真俯瞰で撮っていることがわかる。その後、画面端に散ったチラシを取ろうと男がフレームイン。するとカメラの方を見上げて、これから起きる事の顛末を告げる。闇だったはずの画面は、人物が入り、セットが入りと徐々に奥行きを増していくのだから楽しい。その後、ずっと流れるようにカットが紡がれる。カメラは俯瞰からアイレベルになり、奥の劇場のセットを映す。その看板には阿部定の物語が描かれている。歌がそこに被るとクレジット。その後クレジットが終わると中原中也の詩がインポーズされ、歌の一部がその詩とダブる。その背景には阿部定幼少期の存在がおり、畳み掛ける音楽の三味線の音が、次のシーンの足音とつながる。ここまで、音または映像が不断に途切れることがない。映像だけ、音だけ、脚本だけにと偏ることのない大林演出による総合演出だった。

 その後いくつかのシーンのそれぞれの撮り方を分析する。まずは14歳で強姦で処女喪失するシーン。ここで既に黒木瞳が演者を務めている。14歳という年齢から明らかに離れた、しかし演技は少女らしくあり、最初に観客が混乱する点となる。後々の作品でも大林監督は同様の演出をしているから、今作に限った演出でないことにまず留意しておく。では何がこの演出意図かといえば、同じ身体が演じ続けることの意義なんだと思われる。殊に阿部定に関してはその情事を行う肉体が重要なわけで、その身体が受ける受難や、同じ肉体でい続けるその肉体の牢獄での苦悩がより表されていたと思う。

 序盤は映画草創期的な表現が多く、モノクロだったり早回しだったりが多用されている。さながらフェリーニの「そして船はゆく」のような映画へのノスタルジーを感じると共に、それが物語とうまくリンクしていたように思える。定を犯した慶応ボーイは、さながら怪奇映画に出てくるようなメイクとライティングで恐怖を煽り、またその後の田口トモロヲ演じる悪ガキ集団の早回しはドタバタ喜劇である。ここでの田口トモロヲは早回しの動きの中で、坊主頭は皆小僧として同化する。その後ストップモーション的に動く彼らが可笑しい。こうみると、映画草創期の演出は、そのまま人の一生の始まりに起きる恐怖や高揚感と同じとして見ているかのようだ。今作では、映画は人と同じように成長していくのである。

 そんな虚構であることを隠そうとしないためか、定と岡田の別れのシーンは虚構めいてるからこそ感動的だった。医学生の岡田が、メスでハートの形を空(くう)に切り取らせる演出は、普通のドラマ的なシーンに入れ込めばたちまち陳腐なものになっていただろう。しかし、虚構に裏打ちされた今作ではむしろ説得力があった。そして、その見えないハート、見えない空間というモチーフはアントニオーニの「欲望」のラストの”見えない”ボールのような雰囲気を纏う。現に我々観客には見えていないが、そこに心としての空間があることを認識することは可能なのだ。見えないけど信じるというのは映画における信用の問題である。映画は見る側の信によって辛うじて成り立つのだから。

 娼婦として数々の男と寝ていくシーン。ふと最近見た「ラストナイト・イン・ソーホー」のシーンを思い出す。「ラストナイト〜」では男たちの姿は毎度目撃され、後にゾンビとして”のっぺらぼう”になる。今作も”のっぺらぼう”な男に変わりないのだが演出が全く違う。今作では男たちは同ポジで高速に入れ替わり立ち替わりとなる。一人一人は数コマだけで、同じ動きでなんとか繋げらえているが、顔は映し出されるのにも関わらずすぐ切り替わるから誰一人の顔も認識できない。その映像ならではの表現に流石と唸る。文字通りのっぺらぼうにするのもありだが、映画という見せる芸術において、何を見せないべきかも重要だと感じた。このシーンのサムネイルに使用された定のカットは、色気と共に、変わる男に対して変われない身体の牢獄をも表している。にしても黒木瞳、この映画の前にも同じく阿部定が関連した「失楽園」に出演していて、箔がついてる。

 嶋田久作演じる滝口。彼の存在が醸す時代の雰囲気や怪しさは流石である。アイス高速しゃぶりは必見笑。ここまで出てきた男たちが皆んな大正昭和の雰囲気を醸す顔してて良い。ただ、片岡鶴太郎が龍蔵というところでやや集中力が切れた。どうしたって「愛のコリーダ」の藤竜也と比較してしまう。惹きつけるには微妙だと思った。だから、ここから積み重なる情事もさほど惹きつけるものを感じなかったし、あと事の顛末が一番知られた箇所で新鮮さもなかったのかもしれない。
 
 視線の錯綜。この映画の視線のやりとりは面白い。どれも既存の方法の裏をゆくと同時に、映画があたかも繋がって見えるようにできていることを明かす。これはシーンごとで効用が全く変わるのも面白く、なるほど映像にはまだこんな騙し技が数あるのかと思った。人の視線は哀しくも交わらないのでは?と思えてしまう、ちょうど画面の前の私たちと画面の中の彼らが擬似的に見つめ合えても、それは嘘であるように。
 
 輪投げ、ドーナツ。それは男性器女性器としての比喩として結構直接的に出てくる。しかし、それだけでない人生観すらあると私は見た。それは前半、岡田が切り取った空(くう)と同じで、ドーナツの空いた穴には心が当てはまるのではないだろうか。あのドーナツは単に女性器としてだけでなく、空(くう)を抱えた定の人生が当てはまる。それは我々も同じ空を抱える身として定とほぼ同じであり、彼女と我々はドーナツ的であることで大差ないと気づかされる。

 ラスト。老いた定らしき人が岡田が隔離され収容されていた島を眺めるカットで終わる。その老いたる顔をカメラは我々に晒さなかった。その距離感にはそっとしておこう感があり、優しさを感じた。定自身は事件後に石井輝男監督の「明治大正昭和 猟奇女犯罪史」に本人としてインタビューを受け、姿を出している。貴重な映像ではあるが、そうした暴いたりする映像の側面に対する大林の回答ともとれる。だからこそ虚構に徹することをインポーズに出してまで今作は虚構であることに念を押したのかもしれない。
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