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バクマン。のEegikのネタバレレビュー・内容・結末

バクマン。(2015年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます


エンディング映像良すぎワロタ

大コケする漫画原作実写邦画が多いなかで、これは十分に良作、ひょっとすると名作といえるのではないでしょうか。

主題歌(新宝島)だけでなく、劇伴もとてもサカナらしくて良かった。『アンダー』みたいな電子音×アジアンテイストの曲とか。

最後のほうの露骨なスラダンオマージュも笑ってしまった。「天才ですから」で終わりはしないのね。まぁ本作での「天才」ポジションは新妻エイジだからしゃーないけど。

『BLEACH』がところどころで映されて嬉しかった。最初に編集部に持ち込みに行ったとき、63巻のポスター(阿散井恋次の煽り)が貼ってあって、「あぁ恋次がマスク・ド・マスキュリンと戦ってた頃の作品なんだ…」と懐かしくなった。

作中で何度か「ドラゴンボールやワンピースだって超えてやるぞ」「この少子化の時代にそれはさすがに無理だろ」といった会話がなされるが、この映画公開の1年後に週刊少年ジャンプに連載開始する作品がじっさいにそれをやってのけてしまうのなんかも、現実は漫画/映画より奇なりってかんじで感慨深い。
ライバル漫画家のひとり、福田さんの作品も連載会議で「ヤンキー漫画はいまどきウケない」的なことを言われていたが、現実ではヤンキー×タイムリープ漫画が大ヒットしているわけだし……(他社ですが)。


『金知恵』の連載がスタートして、「高校生漫画家バトル」と編集部に煽られて始まった新妻エイジとのバトルアクションのくだりはちょっとさすがにダサくて笑っちゃった。
本当に意識して対決すべきはエイジじゃなくて読者アンケ1位の作品だし、そもそも「漫画は読者が読んで始めて漫画になる」んじゃなかったのかよ、真に向き合うべきは読者だろ…と呆れてもいたのだけど、のちのサイコーぶっ倒れ入院のくだりで編集長が「高校生対決などと煽るような真似をして悪かった」と頭を下げて謝罪をし、それによって、本来はエイジとサイコーのあいだで自発的に勃発したライバル関係の鍔迫り合いのはずが、それを雇用・管理する大人たちの仕組んだフィールドの上での「茶番」であったことに書き換えられてしまう。……その無慈悲な感じが良かったし、やっぱりあのコテコテアクションのくだりは茶番ってことだよねそうだよね…と納得もできて安心した。


小松菜奈演じる亜豆美保、原作を読んでいた小学生当時はピュアにかわいい~こんな風に女の子と将来の約束をしたぁ〜い♪と憧れていたが、実写でこうしてみると、なんで主人公(サイコー)に惚れているのかも何も説明されず、サイコー主観での「恋は盲目」手ブレ背景ピンぼけ白みがかったショットで映されるのもあってファム・ファタール感が半端なく、むしろ「こわい」印象を受けた。学校で数段高い位置から「ずっと待ってる。」と言うなんて、ヒロインというよりはラスボスの風格がある(エイジよりもずっと)。「我が高みまで登ってこれるかな」的な。
小松奈菜の "そういうヒロイン" 感がさまになりすぎてて、『おやすみプンプン』を実写化するとしたら愛子ちゃん役はこの人だな~と思った。(今年も七夕が終わったね愛子ちゃん…)

この映画で亜豆は「この高校、芸能活動禁止だから」と唐突に退学をするが、これってたしか原作にはない展開なのでビビった。(サイコー入院時に見舞いに来た亜豆が「この漫画の学校ってうちの高校そのまんまだよね。懐かしいな…」と、高校中退者としての貫禄あるノスタルジームーブをするのがすごく良かった。)
主人公ズが『この世は金と知恵』で初連載するのもオリジナルだし(原作では読み切りのみ、初連載は別タイトル)、その連載中にテコ入れとして亜豆モチーフのヒロインを登場させるのもこの映画ならでは。
こうしてみると、やはり亜豆関連でかなり原作から意識的に改変しているように思える。本編クライマックス(『金知恵』巻頭カラーの友情努力勝利展開)ではいっさい亜豆は登場しないままエンディングに突入し、エンドロールの最後の最後で、”漫画として描かれた” 亜豆の顔アップのコマでこの映画=亜城木夢叶先生の初連載が幕を閉じるという、非常に示唆的な結末になっている。
そして、この件と根底で繋がっている要素として、サイコーの叔父:川口たろう先生が幼い頃サイコーに向けていった「俺の嫁は漫画だ」的な台詞がある。(本人筆の画がサイコーの仕事机の上に飾られている)
サイコーが漫画を好きになるきっかけにして「憧れ」の漫画家である叔父のこの言葉に注目するに、この映画における亜豆美保は《漫画》そのもののメタファーというか、「生身の人間だったものが《漫画》のキャラクターになった存在」として描かれ/撮られているんだと思った。だからサイコーやシュージンにとっての《現実》である高校から突然に退学するし、あんなに "こわい" 地に足のつかない感じで撮られるし、『金知恵』に新登場したヒロインがすぐに亜豆だと世間にバレる。
そして入院お見舞いシーンで彼女は『金知恵』のヒロインの台詞をオマージュして…というか、まったく同じことを言う。ここで「亜豆美保」というキャラクターの存在原理の転倒が明確に完了している。
現実にいる亜豆を元ネタとして『金知恵』の人気ヒロインが誕生したのではなく、もともと絵・漫画の世界にしか存在しない「亜豆」という "キャラクター" が男主人公たち("少年"たち)の《欲望》によって小松奈菜の姿をかりて顕現している(ように見えている)のである。

この実写化作品は、原作漫画にあった、目も覆いたくなるほどのおぞましいミソジニー性が希釈され、『スラムダンク』的な男たちのスポ根王道モノになっている、と評価されることがある。しかし、主人公ペアの「仲間」として描かれる漫画家や編集者はみな男性であり、中井さんが上裸になってペン入れしたり、平丸さんが「売れて芸能人との合コン行きましょう」と誘ったりと、ものすごくホモソーシャルな空間に満ちた映画でもある。原作に登場する漫画家仲間の女性キャラ(蒼樹さんや岩瀬さん)、それから亜豆の親友にして後のシュージンの妻となる見吉もこの映画からはオミットされている。(そもそも『スラダン』からして…というのもある。)
中盤で、サイコーたちの漫画が載った少年ジャンプが世の中の「いろんな階層の人たち」に読まれていることを映すシーケンスでも、徹底して男性ばかりを映している。(コインランドリーらしきところで男女カップルが読んでいるカットが唯一の女性モブだったと思う。あと終盤で古本屋の外で立ち読みしている小学生のなかの女子に『バックマン。』を渡してもいたか。)
まぁ「少年」ジャンプだから、といういつもの紋切り型擁護が飛び出すところなのだろうけど、それこそ「ドラゴンボールやワンピースを超えた」漫画の人気はどこの層にリーチしているのか、とかも鑑みると、やはりこの「男性読者しかいない」かのような描写は現実のジャンプを取り巻く状況からは(意図的に)ズラしていると読める。

つまり、この映画に登場する「女性」は亜豆美保ただ一人であり、その亜豆すらも、"現実には存在しない" = "漫画のなかにしか存在しない" 存在として撮られ/描かれている。この映画はその意味で、男たち("少年"たち)が「女性」を眼差して理想=フィクションをそこに作り上げるミソジニスティックな欲望についての映画であり、その "虚構の女性" を通貨として同性間の「友情・努力・勝利」という親密な連帯の物語を描く、セジウィックな欲望についての映画でもある。

ジャンプ編集部の連載会議のシーンがかなり好きなのだけど、やっぱり男性しかいないし(現実もそうなのかもしれないが)すごーくホモソだよなぁ。。

このように、まぎれもなく『少年ジャンプ』の歴史に敬意を持って露骨なオマージュを捧げている青春熱血映画でありながら、そうした『ジャンプ』の(再)生産する歪な欲望と世界観のあり方を相対化して鮮やかに描き出しているようにも解釈できる作品だったので、わたしはこの映画が結構好きだ。

エンドロール前の卒業の日の教室の場面で、サイコーとシュージンが(原作では)描くはずの漫画たちを、ざっつなモーションと共に黒板に次々と描いていくシーンがとても好き。『PCP-完全犯罪党-』に小学生当時すごく入れ込んでいたというのもあるし、これぞ若者の妄想! 創作心の発露! って感じで染み入る。
『新宝島』の入りも完璧だし、エンドロールで現実に存在するジャンプ漫画単行本と、作中オリジナルの漫画単行本と、『ヒカルの照明』みたいな遊び心のあるスタッフロール用単行本とが同じ本棚にひと続きに並んでいるのを横パンで舐めていくショットとか、漫画のコマと実写のキャストのカットを一緒に並べて撮っていくのとか、「漫画原作の実写映画」として100点満点であり、上述した最後のカット=コマまで、メタフィクションとして完璧。
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