集団社会の根底にある秩序と調和は、言い換えればただの同調意識の植え付けでしかない。
道徳的ではないとしても、世の中のサイクルに「不条理」は当然のように組み込まれ、正しさよりも潤滑さの方が遥かに優先される。
海辺のあの小さな村は、そんな世界の縮図だ。
足並みを崩そうとする者は誰だろうと排除される。集団のノリや和を乱すことも決して許されない。逃げられない空間の中で、その場をどうにか凌ぐ。弱者はそうやって生きざるをえない。
日本のイジメの構造もしかりだ。生徒間のイジメは、「空気を読む」ことが最重要とされ、村八分にされては困るから第三者は黙認。警察沙汰になるのはマズイから教師は、見て見ぬ振り。事は取り返しのつかないところに行ってようやく表沙汰になる。
世界中どこの社会にも、どの階級にも同じような集団はいる。弱者はどこにいても弱者として扱われる。
韓国映画が素晴らしいのは、そのモラルの打ち立て方だ。
社会的モラルや道徳観が通念として存在していることを無視せず、そこへ真正面から「こうだ!」と言い切る確固たる意思をぶつける姿勢。
ハーヴェイ・ミルクが言ったようにあらゆる少数派(弱者とされる者たち)は手を取らなければ多数派や強者には勝てない。
こんなところ捨てたっていいし、逃げたっていいじゃないか。
そんな優しさを強く感じた。