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百円の恋のTorichockのレビュー・感想・評価

百円の恋(2014年製作の映画)
4.8
「百円の恋」

戦いとはどこに向かうのか?
戦いの果てに何があるのか?
戦いの意味をたくさん考えた。
そして、思い出した。"ピンポン"のレビューで、僕はこう書いたことを。

勝ち負けを捨てるのではなく、勝ち負けに全てをかけて辿り着くべき場所が、勝ち負けではないところ。
勝ち負けから逃げるのではなく、勝ち負けを超えること。

最初は観るのやめようと思っていた。
"負け犬たちのワンスアゲイン"映画は大好きだし、それがボクシングならなおのこと。
だけど、怖かった。自分がこの映画で思いっきり心をえぐられるのがわかっていたし、逃げていた。
劇中の青木...じゃなくて、狩野のように"嫌いなんだよね、一生懸命頑張ってる人見るの"じゃないけど、自分が諦めたものを一生懸命追いかける姿を見るのは、どこか痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い、でも...
覚悟を決めて観た。
そして、何かが弾け飛んだように思えた。
目が覚めたとかではない、火花が散った。初めて、30分くらい永遠にボコボコにされまくった15歳のときのように。初めてスパーリングで、ボコボコにされた時と同じように。

村上春樹の小説の一節にこんな言葉があったのを思い出した。
"自分に同情するのは下劣な人間がやることだ"

人間誰だって、痛いのも惨めなのもダサいも傷つくのも嫌だと思う。
一子は、そんな人間の当たり前の感情に打ちのめされても、逃げることはしなかったと思う。自分に同情するような下劣な真似はしなかったと思う。ボロボロのくせに、ボロボロになっても、ブスッと何度も立ち上がった。
百円ショップで拳を握り、ファイティングポーズを取った瞬間、世界が変わった。
全てに立ち向かう覚悟を決めた人間の姿は、なによりも美しかった。そして、その一子に震えた。

なんだか演出も演歌みたいに古臭くて目新しいものなんてない。クズ描写もハンパなくてどうしようもないし、突飛すぎるキャラクターに?も出る。だけど、だけどそんなものどうでもよくなった。安藤サクラのフットワーク、シャドーも素晴らしかった。演技力も申し分ない。でも本当のところ、そんなのどうでもいい。この映画は、そこにいなかった、すでに走り去っていた。
僕はきっと、この映画にケンカを売られたんだと思った、真正面からこの物語を受け止めてみろよと。
映画には当たり前にパワーがある。だけど、パワーが映画を超えることも稀有に存在する。

最後、どうしても勝ちたかったと子供のように涙を流す一子を見て、胸が引き裂かれそうになった。

勝負というのは勝たなきゃ意味がない。勝利は格別の味で、敗北は泥水のように惨め。
だけど、勝とうと思えるものがある・勝ちたいと思えるものがある・勝てる自信があるものがある・それにこそに意味があるんだと、肩を叩いてやりたくなった。

勝負の世界は、本当に残酷だと思う。
人には強い弱いがある、だから戦えば勝ちがある、そしてその分だけ負けもある。
常に勝ち続けることなんて一握りの人間にしかできないし、才能は人を選りすぐり、努力は人を裏切る。
でも、誰にでも闘うことはできる。誰にでも闘う意志を持つことはできる。
もちろん、物理的な闘いだけではなく、自分の心や甘えにも。
そこから逃げたくないと思った。そして、闘わないで蚊帳の外から文句を垂れる人間には決してなるなと。
そこから逃げずに闘う意志を持った人間にしか理解できない境地がある、そこには必ず価値があると。
友達が、僕が傷つき悩み苦しんでいるとき、こんな言葉をかけてくれた。
”汚い・汚れてると言われたら、こう言い返して。汚れてるってことはそれだけ戦ってきた証拠だろって”
痛かろうが傷付こうが知ったことか。一子にも出来たんだから。
男だもん、それくらいどうってことない、臆病モノになんてなりたくないし、死んでも臆病モノなんて呼ばれたくない。
一子を113分間見ていて、腹が据わった、覚悟が決まった。
本当すごかった。

とんでもなくまとまりのない文ですみません。でもこれは魂の物語なので、まとまりも分析も解説もいらないと思ったから。

最後に追記。

一子がはなった最高の言葉
”私の価値、百円程度だから”
それのアンサーは、ここにありました。

”貧乏人なめんなよ”
(”クローズ”の芹沢多摩雄より)
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