最近料理関係の動画にハマっていて見る。
大鍋一杯の牛乳を運び、またそれを大きな鍋に流し入れたり粉物を練ったり焼いたり食器を洗ったり、そうした一連の作業が大人数によって行われる(当然休んでいる人もいる)。さらに作られた食事が大人数の胃袋の中に入る。
カメラ目線で硬直する人々が多いのが面白い。それは撮影に対する抗議の意図をもっての視線なのか、はたまた単に好奇の視線なのか明らかにされない。
ベルギーの制作陣らはシーク教徒らの言語を解さないで、彼らの歌うような喋りに字幕をつけることなくただ垂れ流す。言葉は食器を洗う音や大きなタライに向かって投げ捨てる音同様に雑音の一部になる。良くも悪くもうるさいにも関わらず静かな映画に思えるのは恐らく全てが雑音でしかないからだろう。
一連の行動がただ美しく垂れ流されてしまっている節があり、やや不満を感じた。映す側と映される側の一定の距離感が保たれ続けているのは、ある意味「シーク教徒にはなれない」撮影陣たちの誠実さの表れでもあるのだろうが、その壁が終始壊されることがないという安定感に寂しさを感じた。一番は何よりも料理だ。「聖者たちの食卓」なのだから、やはりもっと料理を映してほしかった。