マサヨシ

ラース・フォン・トリアーの5つの挑戦のマサヨシのレビュー・感想・評価

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ドキュメンタリーとして面白かった。

ラース・フォン・トリアーが「敬愛する」ヨルゲン・レスに、いくつかの制限付きで5本のリメイク作品を撮らせる。それもヨルゲン・レス自身の作品『完全な人間』のリメイクである。

レス監督のことはよく知らないが、どちらかというとアートよりな作風と見受けられる。白背景の前で寝転び食事をする人間の運動をナレーション付きで見せる『完全な人間』、ウォーホールの『イート』っぽさを感じる。

要するに一般的なリメイクとは違って、「完全な人間」とは何かを提示する、いわば大喜利のような試みが幾度も行われるのだ。トリアーは傲慢にもそれをレス監督への「セラピー」だと言い張る。しかしずっと見ていると、なるほどセラピーかもしれないとも思えてくる。

どこかウキウキなキューバ編、何となく不穏なボンベイ編、ザ現代アート感満載のブリュッセル編、MTV味の強いカートゥーン編、そしてまさかのラース自身のリメイク(しかしクレジットはヨルゲン・レス)。

ヨルゲン・レスの問題は「被写体との距離感」だとラースは言う。彼はヨルゲン・レスの強固な作風を打ち崩すために無理難題を押し付ける形で「セラピー」を施す。他方、ヨルゲン・レスは被写体をつぶさに観察することにこそ意義があると述べる。

しかし本当に被写体は観察されているのだろうか? 確かに被写体は美しく撮られているかもしれないが、どれも滑らかで口当たりのいい高級料理として調理されてしまう。そこでの被写体はパズルの1ピースにすぎず、事実、監督自身もラースが突きつけてくる挑戦について、どれもゲームでしかないと言う。

ボンベイ編は特に、主演が監督自身であることもあって、世界に対する彼の見方が表れてしまっているのではないか。最も悲惨な場所で撮影しろというお題を受けて、監督はボンベイの売春街に赴く。売春街の貧しい人々を半透明の仕切り越し、背後に映しながら、監督は悠然と紳士服を纏い高級料理を口にする。

監督の思う「完全な人間」とは結局のところ自己完結した人間なのだ。それは物を口にし床に倒れ髭をそったりするが、なにかに影響を受けることも与えることもない。しかし、果たしてそれは人間なのか。生き物ですらないのでは?

個人的にはラースが監督した5本目が好きだ。「ヨルゲン・レス自身よりもヨルゲン・レスを知っている」とのたまう彼の作品は謎の説得力を孕んでいた。ボンベイのホテルで床に倒れてみせるレス監督、「これが完全な人間の倒れ方だ」というレス監督自身のナレーション。何ともナルシスティックな空虚さ。
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