吉野

沈黙ーサイレンスーの吉野のレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
5.0
「聖書では悪魔が人を殺した数の何倍も神が人を殺した」
どこかの誰かが言った言葉。
現実でもそうだ。
宗教が存在しなければ失わなくて済んだ命がどれほどあるだろう。

イエズス会がキリスト教を東の島国にもたらしたが、ある日弾圧が始まった。
弾圧した理由は様々だが、とにかく沢山の罪なき者の血が流れた。
ところで、キリスト教は言葉の通じない異国の民への布教のために絵や像を作りまくっていたが、実は偶像崇拝は旧約聖書の頃から禁止されている。
宣教師達は教義を捻じ曲げ、文化の全く違う民に合わせてデザインされた宗教観を提示するが、これは本来のキリスト教の教えに反することが多い。
元々の教義知っている宣教師にとって、それは果たして正しい信仰者の姿に映ったのだろうか。
少なくとも本作の主人公にとってはノーだ。
日本で広く拡散されたキリスト教は、かつて神道と仏教が融合したように自然信仰の中に取り込まれ元々の姿から大きく変化していた。
彼らキリシタンはキリスト教がもたらされる前は無宗教家だったのだろうか?
否、違う。
大勢の日本人にとって大昔から自然こそが神なのだ。
これはキリシタンになったところで変わらない。
キリシタンはあろうことか、キリスト教の神を天道、つまり太陽と呼んだのだ。
キリスト教的観点でいうとありえないことだ。
キリスト教では神は世界の創造主であり、天道も自然も大地も全てが神の創造物である。
神が作った太陽が、神であるはずがない。
ただ日本人にとってそんなことは到底理解できない。
なぜなら自然が大枠にあり、その中に全てがあるからだ。
DNAにまで染み付いた先入観はそう簡単には変わらない。
自然の中に神がいて、釈迦がいて、仏がいて、先祖がいて、霊がいて、さらにそこにサンタクロースがいたっていい。
その全てがありがたいものなのだ。
多神教の究極系、事象の全てを内包して飲み込んでしまう。
これを主人公の師は泥と呼んだ。
日本人には絶対にキリスト教は根付かないという根拠である。
世界全体を見ても稀有なケースの多神教信者に一神教の教えが根付くはずない。
否定されるよりもタチが悪い。
否定されるなら強制すればいい。
もしくは諦めずに訴え続ければ道が開くかも知れない。
だが、飲み込まれるなら、どうしようもない。
キリシタンはキリスト教を飲み込み、お天道様を信じれば死後の世界で救われると信じた者たちだ。
だから、どれだけ迫害されても転ばなかった。
しかし、宣教師達にとっては彼らは殉教者ではなかった。
太陽を信仰したところで何だというのだ。
雲の上に天国はない。
だから転べと叫んだ。
そんなものを信じたところで死後救われないと思ったからだ。
叫び続けたがみんな転ばなかった。
拷問の果てに無惨に死んでいった。
宣教師達から見たらこれが地獄でなく、何が地獄だ。
自分たちが人々を救いたい思いで、もたらしたキリスト教が、人々を殺している。
そのどれもが善良な人々だ。
だが死後救われない。
最悪だ。
この負の連鎖を止めなければならない。
だから、主人公は残りの人生、全てを懸けてキリスト教が日本で広まらないように尽力した。
自分たちがもたらした不幸の種を後世に残さない為に。
神頼みしかできなかった若者が、この状況を少しでも好転できるように行動し始める。
そういう成長物語とも受け取れるこの本作。
あまり多くの教訓が含まれているため、人生の教科書としたい。
和装のリーアム・ニーソンがクワイ=ガン・ジンにしか見えない。
吉野

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