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さよなら、人類のmndisのレビュー・感想・評価

さよなら、人類(2014年製作の映画)
4.5

この映画は人間観察ムービーである。

人間を善悪を超えた客観的な視点で捉え、その中に出てくる人類の滑稽さを描いた映画だと思っている。

滑稽さとは、人類を客観視した時に見えてくる感情や概念が相反するモノと表裏一体である事の滑稽さだ。大真面目な事も客観的に見ると笑えちゃうと言った事だ。

まず最初に描かれる3つの「死」。

この「死」は、「死の瞬間」「死の直前」「死後」と「死」とへの時の流れを3段階で描いていて、どのシーンも滑稽だ。

「死」という『哀しみ』を『笑い』という相反する物と表裏一体に描き、その滑稽さを語っている。

しかし、それは客観的な視点を持った者の見方であり、当事者は必死であったり不幸のどん底に落とされて哀しみにくれていたりする。

そこに現れるのは、サムとヨナタンという面白グッズを売り歩く2人のセールスマン。

ドラキュラの牙、泥棒のお面、笑い袋など、まったく笑えないグッズを売り歩いている二人は、世の中に「笑い」や「娯楽」を振りまこうとしていると言える。

そして、この「娯楽」という言葉の対をなす言葉として「退屈」や「マンネリ」が当てはまると思う。

劇中に出てくる、登場人物達は「退屈」や「マンネリ」という言葉がぴったりと当てはまる人物ばかりだ。

顔は白塗りで正気がなく、「元気そうでなにより」という言葉を感情のこもってないトーンで繰り返す。

その様子は退屈な人生に麻痺し、ボケきった印象を与える。

サムとヨナタンは、そこに「笑い」と「娯楽」を与えようとする。

しかし、全くウケず、商品は売れない。

その笑えない様子を客観的な視点で観客に観せる事で、ここでも同じく「退屈」がクスっと笑える「笑い」や「娯楽」へと変貌し、これらの相反する概念が表裏一体である事を描いている。

そして、その表裏一体という考え方は、映画自体にも掛かってくる。

終盤の黒人達が、筒状の銅の処刑マシーンに入れられ火炙りにされ、そこから出るラッパから音楽が奏でられ、裕福そうな老人達を愉しませるというぞっとするシーン。

そして、そこには彼らにワインを注ぐサムとヨナタンの姿が。

誰かの「悲劇」が誰かの「娯楽」になるという構造もそうだし、映画の中で「笑い」を振りまいていたサムとヨナタンが、虐殺を楽しむ富裕層の老人達に使わされているのは、「コメディ映画」を真逆のジャンルの映画へと変えてしまうぐらいの、怖さがあった。

もう一つこの映画で監督が語っているのは、人間の「欲望」だ。

何かにしがみつく人間、何かを得ようとする人間、娯楽を求める人間、そういう人物が多く登場する。

それらの中には、「愛」を求めたりと可愛らしいものもあるが、敵国に攻め込んで「領土」を得ようとしたり、人を殺して「娯楽」を得ようとしたり、猿に電気を流して「科学の進歩」を求める姿がある、監督はそれらを善悪に分けて描いていない、あくまで客観的に人類を描いている。

ただ恐怖を感じる様な欲望として描かれている人物達は、将軍であったり富裕層であったり、科学者である事は重要な点に感じる。

監督は客観的に描きつつも、そこに権力者というモノへの不信感を感じさせる。

ラストシーンのバス停で曜日を忘れる庶民達は、欲望を忘れ、呆けた人間だが、どこか愛おしい。

監督はもそう思っているのだろう
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