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マッド・ガンズの海のレビュー・感想・評価

マッド・ガンズ(2014年製作の映画)
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わたしの住んでいる町は、本屋すらないほどのゴーストタウンなんだけど、それでも高校生だった頃は、歩いて行ける距離に古いレンタルショップがあった。そこの店長の趣味は結構変わっていて、表彰されていたり世間で人気のある映画はほとんど入れない代わりに低予算映画を毎月いくつも入れていた。あれが原因で潰れたんじゃないかな、と今なら分かるんだけれど、あの店長が居なければ、わたしが本作に出会うこともなかったかもしれない。同時期にニコラス・ホルトが出演した『マッド・マックス』の新作に便乗しようと当てられたタイトルと、「近未来サバイバルアクション」という紹介文、どちらも本当に的外れで、埋もれた上質な低予算映画の代表格でもあるかもしれない本作だけれど、わたしがそれを悲観していないのは、あの趣味の変わった店長、どうかしている邦題、予想か期待のどちらかを裏切る未開封の世界、そのどれもが揃っていたからこそ、もはや忘れ去られていくだけかもしれない本作にわたしは出会うことができ、今も思い出すことができているから。あのころは、映画を観終わって抜け切れない眠気に付き合ってくれる猫はわたしのそばにまだなく、代わりに昼過ぎまで眠り込んで夕方になって映画を借りに行き、駄作も佳作も入り混じりの低予算映画ばかり一日に2本も3本も観て、休日が明ければ先生以外は全員嫌いで勉強以外は何一つ楽しくなかった学校に通って、安いチョコの箱みたいな外見の電車の中で、詩や小説を書き、時には絵を描き、今は絶対聴かないような煩い音楽を聴き、今も変わらず聴いてる静かな音楽を聴き、毎日空の写真を撮って、わけもなく泣いていた。この映画に出会った数日前に、詩を投稿していたほとんど無名のサイトで出会った年上の女性が、突然「さよなら」と書き残して消えてしまった。犀というハンドルネームを使っていたそのひとと、はじめて話したとき、「読み方を一度で当ててくれたひとはあなたがはじめて」と言われた。文章からでも伝わってくるほど、彼女は嬉しそうだった。動物のサイじゃなく、木犀からきているものだとわたしは思い込んでいて、「せいさん」と呼んだ。犀ということばに、愛着を持ってしまったのも、あの日からだった。そんなことを思い出しながらわたしはこの荒野で生きる少年の慈悲深い瞳に出会い、何もかも見抜いてしまうのは賢さでなく優しさなのだと知り、いつも真っ白な空間にこそ血が滴るのは陽光の下の日影が人の脳を虜にしてしまうあの鮮烈さを求めてこそなんだと知り、わたしがわけもなく泣いてしまうのは、これから出会うすべてのひとや、今まで出会ったすべてのひととの、別れにいちいち泣けなくなってしまう日のためなのだと思った。忘れたくないことがあまりに多すぎて、振り向かずにはいられないわたしのことを、賢く生きているひとたちは笑うのだろうか。人間の半分も生きやしない猫をこんなにも頼り愛して、過去をもう一度起こすためのことばや美術に縋り付いて、記憶だけしか残らなくてもそこに生きている愛があるのだと迷走したままの正解を出したわたしのことを、わたしを追い越していったひとたちは笑うのだろうか。ねえわたしの永遠が、この正義が世界があいということばの意味が、ネオテニーとしてわたしを離さないのだとしても、わたしもあなたも変わらずいつか生まれる前の魂に戻る日が来る。ただ生きるだけならば、いくらでもわたしと、どうか笑ってください。
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