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パーフェクトブルーの海のレビュー・感想・評価

パーフェクトブルー(1998年製作の映画)
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嫌われたいわ、貴方がたのその、成長を目の前にして黙り込む他できなかったくせに匿名下や画面の向こうではふんぞり返って自己中心的幻想に縋り付くしかない害悪さやら、若さを信用できないからその部分を犯す以外に自尊心を保つ方法がなくて必死になって尚芸術家気取りなところ、愛している生きる希望を苦しめてまで成り代わりたいと願うのが例えどんなに可哀想でも気分悪い、年季こそ権力だと思ってても利用しようとすればそれは垢です、歴史は歴史に過ぎませんから、とにかく貴方がたに私、嫌われていたいです。私は女の子のアイドルが、本当に好きで、死ぬほど、いえ、生かされているほどに虜で、音楽のジャンルを一本に絞って一生それしか聴けないと言われたら洋楽も邦楽もジャズもクラシックもかなぐり捨てて女の子のアイドルを選ぶと思う。彼女たちの可愛さ、かっこよさ、美しさ、つよさ、きらめき、それがどんなに虚構(「嘘つき、うぬぼれ」)であろうが限りなく変化していき事実に近づいて(「そんなの○○ちゃんじゃない」)いこうが、そんな“理由”が微塵も意味を持たない「可愛いから可愛い」「かっこいいからかっこいい」「美しいから美しい」隙のない圧倒的なトートロジーを掲げて今この瞬間にもアイドルは、多様化している。本当に、すきなんです。生きている光なんです。本作で描かれた時代よりも、今の日本のアイドル文化はより固くなっているはずで、でもこれを観ていても観ていなくても私は、誰かに「どう思う?日本のアイドル文化。」と聞かれれば「突き詰めればアンチよりやばいのがファンです」と答える自信がある。最近、ファンチという言葉が出てきていて、それはファンとアンチを掛け合わせて生まれた言葉で、推しに迷惑をかけるファン、あるいはファンの振りしたアンチ、という意味を持っています。本作の時代に、この言葉が無かったのが本当に不思議だ。オタクという、本来凄い人数のひとりぼっちで構成されているコミュニティが、一つの意志となって推し・コンテンツ・界隈に黙認の流れを作ってしまうことが、私は本当にやばい、と思っている。本作でもたかがブログサイトである『未麻の部屋』が物凄い力を持っていたように、現実に今SNSは、ブログなんかとは比にならないくらい影響力を持っている。ある概念を、持続させるために私たちは、選択肢が望むものとは全て微妙に違っていてもより近く、自分にとって都合の良い方へ傾き、加勢する。本来、その場に参加しているだけの人間が、消費し乗っかり支配するようになったとき、当然に目に見えずそれの持つ真の目的は潰れていくし、「嫌い」を理由に何を言ってもいいと思っている人間よりも、「好き」を理由に何を言ってもいいと思ってしまう人間こそ本当にひとの心を殺していきます。アイドルとて人間であって、彼女たちは皆、勝手にアイドルになってるわけでもアイドルという看板を提げて生まれてきたわけでも、ましてや「自分たちオタクこそが普通の女の子を特別なアイドルにさせてあげている」わけでも決して、全くなく彼女たちの見えぬ努力と忍耐と意志のもとで彼女たちはアイドルなのだということ、どんな節操を失ってもそれだけは覚えてろ、そのうえで発言しろ、と思う本当。自分が、それらについてどう考え何を望むのか、そして向ける対象にとっては自分はどう考え何を望むべきなのか、を今一度思考することが、本当に、重要になってきている、今、私たちは簡単にそれらの持つ価値を良い方向へ導くことができる反面、完全な支配下に置いてしまうような流れだって簡単に作れてしまうから。私たちは、特定の界隈に、常に参加しているだけであり、留まることができれば去ることもできる、それは私たちも向こうも承知の上でそうあるはずだ。そして私たちの在り方が、良い方向へと変わってきているのも事実だ。このあいだ上司が言っていた、「俺らの時代はアイドルのコンサートなんか行ったら観客が脱げやー!って叫んどるのが普通やった。」私はそんなの勿論聞いたことがないし、ライブ行くと曲中はコールにペンライト、MCは笑いにレスポンス、ゴミは回収、ひとの推しを貶さない、他者には絶対に迷惑を掛けないというのが普通だった。(ただし、節度のない二次創作やリプライで垂れ下がってる妄想の爆弾投下やそれを公式の真実だと思い込んでマスターベーション的楽しみ方をしている人達が居るのも事実で、それで人をSNS引退まで追い込んだりトラウマ植え付けたり心に傷を与えている自覚持ってくれ。)こんな国で、アイドル、よくぞ続いてくれました、ありがとうございます、と土下座したくなります本当。私が主に推してるのは、二次元アイドルという歳を取らなければスキャンダルや恋愛・結婚でオタクを「裏切らない」そもそもが虚構で成り立っている女の子たちであって、現実のアイドルを推している人たちにとったらもっとこの世は地獄だと思います。ただ、今、仮想現実は凄い勢いでリアルに近づいているし、時に仮想現実×現実の関係は現実×現実よりも力を持ってしまうことだってある。私は笑顔がかわいい女の子がアイドルだとは思ってない。ファンを大事にする女の子がアイドルだとは思ってない。純粋で、無邪気で、表しかなくて、裏があったところで心地いいくらいのギャップで、そういう優しい女の子がアイドルだとは思ってない。アイドルは、美しい嘘のつきかたを知ってる女の子だ、それになりたくて必死で努力し続けてきた女の子だ。可愛い笑顔も神対応も、つまりその結果に過ぎない。もうやめませんか、私達の手で彼女たちの望まぬ嘘をつかせるのは。私達の手で嘘を暴くのは。都合よく“崇拝”を“信用”に摺り替えられる手のひらを堂々晒しながら、処女(おとめ)・聖母・天使、それら要素への過度な執着を見せ付けるのは。苦痛も恐怖も含め偶像が成り立っているとしてもそれを達観していいのは自らだけであるはずだ。意志も成長も望んでいる偶像を、ただ敬いなさい、敬意を捨てるな、出来なきゃ舌を切って黙ってろ、私はもう好意を押し付けた後の蹂躙を許したくない。私はこれからも自分の推しを熱心に推し続けますし、彼女たちを取り巻く環境と自分を囲む界隈を厳しく見つめ続けます、いつも自分にとってのアイドルについて思考してるけど、本作を観て考えるのは全く真逆のことで、アイドルにとっての自分、です。

以下、追記項目にはネタバレ可能性あり。

追記:タイトル『PERFECT BLUE』の意味するところは「完全なる変態」であり、この変態は猥褻の変態(つまりオタク)と昆虫の変態(つまりアイドル)のダブルミーニングなのかなと再鑑賞で考えた。でも蛹からかえって蝶になった未麻ちゃんというよりは、蝶さえも脱ぎ捨てた未麻ちゃんって感じです。初鑑賞時より5億倍は好きだったな。
追記2:アイドルとオタク、私生活と芸能活動の距離感問題を踏み台にして、ある種の人たちからすれば人生の永遠のテーマでもあるだろう「本当の自分(何を以て自分)への追きゅう」が本作にはあって、かく言う私も自分を見失ったり得た気になったりしながら生きている最中なので、夢も現実も隙を全く持っていないあの毎日とてもじゃないけれど追いつかないギリギリの生活を超越してしまうことは、成長をやめないかぎり、つまり生きているかぎりは無理だと思う。でも、実際このラストは物凄くて、構造の全てを超越し「物語の要素である未麻」から「未麻の要素である物語」になった、少女はこれからも「未麻では無い、たった一人の未麻」であるだろう。遍在し、偏在する少女の物語として、霧越未麻は岩倉玲音にも通ずるところがある気がする。嘘と事実をあわせて“わたし”、澱み無い場所に真実は無い。
追記3:では、私達が少女に求める「少女性」とはやはり他者によって生産・制作されている存在なのか?そうではないと思う。私達は自分の思い通りになる理想なんかに憧れを抱くことはできない。そのひとが、いつも予想を裏切り、期待を易々と越えるからこそ私達は、必死になって足元に縋り付き僅かな輝きでも浴びようとする。「理想」なんてやわなものは結局「理想通りではないこと」だと思うし、「自分の思い通りにはならないこと」なんだと思います。
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