Kumonohate

カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇のKumonohateのレビュー・感想・評価

4.2
ロダンとの出会いから破局、その後の精神崩壊までを描いた、1988年のイザベル・アジャーニ版に対し、こちらは、統合失調症により精神病院に入院させられてから2年後の姿を描く。となれば、演じるのはこの人しかいないでしょう。ということで、クローデル役はジュリエット・ビノシュである。

例えば、体に湿疹が出来て痒いとする。我慢できないことは無いが、念のため医者に診てもらおうと病院に行く。何らかの診断が下り、病名が与えられる。その瞬間に、体が痒いだけだった人は、レッキとした皮膚炎の病人になる。同様に、他人より少々感情が不安定なだけだった人は、医者に診断された途端に立派な情緒障害患者となる。

本作のカミーユもそんな感じだ。

他人より少々自尊心が強く、多少妄想癖があるくらいにしか見えないのに、精神病と診断された以上は、明らかに彼女は病人だ。病院の外にいれば、“ややエキセントリックな女性” くらいにしか見えないのに、精神病院の中にいる限りは、“軽度の精神病患者” となる。そして、精神病患者というレッテルを貼られている彼女が、普段は静かに生活しているものの、たまたま周囲の患者の態度に苛ついて、ちょっと感情を爆発させたりなんかすると、これはもう “完璧な精神病患者” になってしまう。そして、これ以降の様子は映画では描かれていないが、病気を “発見” され入院した人が、どんどん “病人” になって行くように、彼女もまた、次第に重度の精神病患者になっていったのだろう。

そんな彼女の元を弟のポールが訪ねてくる。

カミーユが発病してからは一切交わりを断った母や妹と違って、ごくたまにではあるが面会に訪れ、病院に莫大な寄付をすることで、本人なりにカミーユの面倒を見続けた弟だ。若くして信仰心に目覚め、それ以降、極端に思える程、深い信仰心を持ち続けた弟だ。劇作家で詩人であると同時に、外交官でもあるという極めて真っ当な弟だ。カミーユにとっては、自分を孤独から救ってくれる可能性のある唯一の存在である弟だ。

物語の終盤で、このポールとカミーユが面会する。孤独を訴え、病院からの解放を懇願するカミーユは、このときばかりは、強い被害妄想と他者への激しい侮蔑を爆発させる。自分を陥れたのがロダンであり、自分の才能を嫉んだ輩が自分の芸術を盗んでいるとまくし立て、自分の芸術を理解出来ない凡人や、病院の患者達を徹底的に見くだす発言を繰り出してしまうのだ。唯一すがれる相手に対し、せき止めていた感情が一気に流れ出てしまったであろうことは理解出来る。それが理解出来るだけに、傍目には、明らかに精神のバランスを逸してしまっており、紛れもない統合失調症患者に見えてしまうカミーユが哀れである。そこが辛い。

そして、そんなカミーユをポールは突き放す。やはり姉の症状は軽くなっていない、手に負えない厄介者だ、隔離するしかない。そう思っているかのように。そして、病院を後にする弟は主治医に告げる。「芸術家は危険な職業だ。芸術は創造性や感性といった、精神の危うい部分に働きかける。だから、バランスを崩し激しい人生になりやすいのだ」と。

ここで、「そういうことか」と思う。

ポールはカミーユが怖いのだ。自分の中に姉と同じ資質が潜むことを自覚している弟は、精神のバランスを崩さないために、深い信仰に入って行った。そのバランスが姉によって崩されるかもしれない、あるいは、そうやって保たれたバランスなど容易に崩れ去るものなのだということを見せつけられるかもしれない。それが怖いのだ。突出した才能が精神崩壊を引き起こす様を目の当たりにすることが怖いのだ。そしておそらくは、ロダンもまた、この恐怖に囚われていたに違いない。

結局、肉親や愛人などの近しい存在は、いや、近しい存在だからこそ、カミーユの受け皿にはなり得なかった。そして遠ざけた。並外れた才能が、近親者に恐怖を感じさせ、その結果、狂気の檻の中に人生ともども葬られてしまったとするならば、カミーユの人生は余りにも無残である。
Kumonohate

Kumonohate